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 お志津 148 童女に戻る



 八畳の座敷の中には、よどんだ沼のような重苦しい空気が立ち込めていた。 若い男性達は上座をこの家の主人に譲り、そのせいか義春は床の間を背にいつもの淡々とした表情をを失って、むっつりした顔になっていた。
 花嫁衣裳が着崩れ、綿帽子をどこかへ置いてきてしまった志津が部屋に顔を見せると、男達は一斉に顔を上げた。 夫のそばで歯が痛むように頬に片手を添え、困りきっていた咲が、低くうめいて立ち上がりかけた。
「志津! あなた何という格好で……!」
 志津はけんめいに母を見つめながら両親に呼びかけた。 すると奇妙な、かすれた声が出て、自分でも驚いた。
「お父様、お母様、私の気持ちも聞いてください」
 だが、まだ言い終わらないうちに、珍しく父の厳しい声が飛んだ。
「よしなさい! おまえの意見の通る場ではない。 死んだと思われていた鈴鹿君が生きて戻ったのはめでたいことだが、おまえは鈴鹿の家から実に無礼なやり方で締め出されたのだぞ。 すでに義理はないはずだ。 一方……」
 志津は戦慄した。 父は名木先生の味方についてしまった!
 たしかにこうやって向かい合っている青年二人を見比べれば、ほぼ全員が名木に軍配を上げるだろう。 きりりとした目鼻立ち、落ち着いた端正な物腰、乱れ一つない礼装。 名木はほれぼれするほど立派だった。
 対して、敦盛は見る影もなかった。 髪はぼさぼさに乱れ、首筋から顎の端にかけての火傷の痕は、暗がりで想像したよりずっとひどくて目をそむけたくなるほどだった。 不幸中の幸いで顔にはほとんど響いていなかったものの、栄養状態が悪かったのだろう、肌がざらついて色が]t悪く、元気がないのは誰の眼にもわかった。
 何よりも志津の胸をついたのは、敦盛が自信を失っていることだった。 彼はいつも大きく、落ち着いていて、物静かながら頼りになった。 志津にとって敦盛は、嵐の日の灯台のような存在だったのだ。 彼がいると安心できた。 常にそうだった。
 今はちがうの? と、心の中で声がした。 志津は、半ば顔をそむけている敦盛を、夢中で見つめ続けた。 耳の横を父の声が通り過ぎていくが、まったく意識に入ってこなかった。
 あまりにも志津の眼差しが必死だったからだろう。 敦盛の首が動き、ようやく視線が合った。 その目に宿った哀しい光を見届けたとき、いきなり志津の中で爆発が起こった。
 自分でもどうにもならない衝動だった。 志津はぺたんと畳に座ったまま、ざらついた声で不意に叫んだ。
「いやだ!」
 皆の顔が一度に上がった。 しかし志津は、もう誰も見ていなかった。 目の前が真っ赤になって、常識もわきまえもすべて吹き飛んでいた。
「いやだよ〜! 取り上げないで! 兄ちゃんは死んじゃったけど、敦盛さんは生きてる。 なのに、なんで引き離そうとするの?」
「志津……!」
 母のおろおろ声も、志津の耳には入らなかった。 白無垢の裾を長く引きずったまま、志津はよろめきながら立ち上がり、一直線に敦盛のそばへ走り寄って、しゃにむに抱きついてしまった。







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