表紙

 お志津 146 髪一筋の差



 影はすぐ志津を下ろすと、素早く背後に回した。 庇うような姿勢とも、逃がさぬように押しやった体勢とも取れた。
 志津は逃げなかった。 影の背中に手を置き、太い腕の横から片目だけ出して、仁王立ちになっている花婿を見やった。
 最初に口を開いたのは、名木だった。 声を低く抑えているが、それでも夜のしじまにくっきりと響き渡った。
「何者だ」
 影は頭に手をやると、深く下ろしていた鳥打帽を脱ぎ捨てた。 すると中途半端に伸びかけた髪が爆発したように開いて、針を刺しすぎた針山のように見えた。
「鈴鹿だ。 鈴鹿敦盛」
 しわがれた声だった。 だがなつかしい響きは残っていて、志津の胸が熱くしびれた。
 名木は驚かなかった。 予想していたのだろう。 油断なく構えていた腕を静かに下ろし、ぽつりと言った。
「生きていたんだな」
「そうだ」
 敦盛の声はいよいよしわがれ、はっきりしなくなった。
「敵の捕虜になっていた。 露西亜語の片言を話せたせいで、調法がられてなかなか戻れなかった」
 その言葉に、志津はどきっとして反射的に名木と目を合わせた。 帰還してきた岡先生の話が頭にひらめいたのだ。
『露西亜語を少し話せる下士官がいて、敵と交渉してくれたんであります。 その男がいなかったら、更に帰国が遅れたでしょう』
「その間に戦死したことになっていたなんて、どうしてわかろう!」
 不意に敦盛は叫び出した。 声がかすれているため遠くには届かないが、絶望的な嘆きがこもっているのは伝わってきた。
「行方不明、戦死と推定だと? それがなぜ死亡とすり替わる! しかも、やっとの思いで家にたどりつくと、親が勝手に縁組を壊して、葬式まで済ませていたんだ!」
「君はすぐここに来るべきだった」
 教師らしく、名木は諭すような口調になった。 敦盛は激しく首を振り、手探りで背後の志津の袂を掴んだ。
「来ておぬしと対決するのか? 皆が認める三国一の花婿と? おれは近くで砲弾が爆発して、首をえぐられたんだぞ」
 そう言うやいなや、敦盛は身をひるがえして志津を向いて立ち、着物の襟元をぐいと引いてあらわにした。 すると、肩甲骨の少し上から左耳の下まで大きく広がった火傷の痕に、月の光が鈍く反射した。
 短く息をつきながら、敦盛は言いつのった。
「火傷は頬にも点々とついている。 これでもだいぶよくなったほうだ。 もともと大した男ぶりでもなかったが。 その上、うちの家族が志津ちゃんにあれほど無礼な真似をして……愛想を尽かされて当たり前だったんだ」
「しかし」
 名木がなおも話しかけようとするのを、敦盛は激しくさえぎった。
「おぬしにはわからん! おれは十五の夏から、ずっと志津ちゃんが好きだった! たとえあきらめられても、忘れられん。 理屈じゃない!」
 志津は彼の悲痛な叫びを、ほとんど聞いていなかった。 砲弾が敦盛の体を通り過ぎていった──その事実だけで割れるような耳鳴りに襲われ、立っているのがやっとになっていた。 この人が生きているのは奇跡だ。 砲弾に飛ばされても生きて起き上がって、ここまで来てくれたなんて……!
 ひやっとしたものが首筋に触れて、敦盛ははっとなって口をつぐんだ。 それは志津の手だった。 冬の戸外で冷え切っている指先が、でこぼこになった敦盛の火傷を何度も撫でさすっていた。
「一寸浅くてよかった……痛かったでしょうけど、一寸(約三センチ)外れて助かった……」
 無意識につぶやいているうちに、実感が出てきた。 敦盛は生きている。 生きて本土に戻ってきた……!
 いきなり志津は敦盛の胴体にしがみつき、両腕で固く抱きしめたかと思うと、そのままずるずると膝を崩して、意識を失った。







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