表紙

 お志津 145 月夜の対決



 淡い影は、庭石や植木に溶けこんでいた。 昼間の中庭を見慣れていなければ、存在さえわからないほどの薄さだった。
 それなのになぜ、志津には見えたのか。 しかも、その影がわずかな間をおいて、いきなり飛び出すように前へ進み、ぐんぐん大きくなってきたのに、身をよけなかったのか。
 志津は、ただ立っていた。 声を出さず、身じろぎもせず、ただ雨戸に寄りかかるようにして、ランプの小さな光の輪の中に影が入ってくるのを見つめていた。
 ポチも無言だった。 侵入者をおどして吠える気配もなく、ただ相手が速度を増して突っこんできたので、あわててよけた。
 気づいたときには、志津は大きな胸の中にいた。 あまりきつく抱きしめられたせいで、周りがまったく見えない。 毛織物とかすかな石鹸の匂いがする壁に、がっちりと包囲されていた。
 一筋の乱れもなく結った髪や、細心の注意を払って塗った白粉〔おしろい〕は、崩れほうだいになってしまっただろう、と、志津はぼんやり考えた。 それからもう考えるのを止めた。 今この瞬間、志津を抱きしめているのは間違いなく敦盛だった。 それが亡霊だろうが生き霊だろうが、この世で一番逢いたかった人だった。
 二人の心臓は、息の合った太鼓のように同じ律動で鳴り響いていた。 志津は目を閉じて、この時間を覚えておこうとした。 まだ働いている理性の一部が告げていた。 犬が吠えない侵入者なんていないはずだ。 これは現実であろうわけがない。
 そのとき、いきなり足が宙に浮いた。 志津はハッとして目を見開いた。 影は軽々と志津を横抱きにして、すべるように中庭を横切りはじめた。
 すぐにポチがついてきた。 まるで人さらいの手引きをしているようだ。 志津は一瞬、頭が混乱した。
「どうして……?」
 影に小声で呼びかけようとしたとたん、口をふさがれた。 両腕で抱き上げながら口に手を当てるのは難しい。 志津は釣り合いを崩して不安定になり、思わず影の肩にしがみついて、もみあいをするような形になった。
 影はなおも志津をかかえあげて走ろうとした。 そのとき、ぱたぱたと走る草履の音がして、誰かが木戸の前に立った。
 志津は顔を上げた。 月が姿を隠していた雲から抜け、立ちふさがった人間を照らし出した。 それは、紋付袴で凛々しく盛装した、花婿の名木孝昭だった。







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