表紙

 お志津 144 兄と犬の魂



 白無垢の花嫁衣裳に着替え終わった後、志津は仲人の奥さんと母にことわって、一人で兄の部屋に向かった。
 主のいない部屋は、ちり一つなく清められていた。 そして、壁の三面を占めた大きな棚には、兄の遺品が整然と並べられていた。 志津は、おそろいで作ってもらった独楽〔こま〕の兄の分を、前に人形を入れていたガラスの箱に大切にしまって、棚の中ごろに飾っていた。
 自分の独楽をそっと袂から出すと、志津は兄の独楽に語りかけた。
「お兄ちゃん、お嫁に行くことになったよ。 この家を出ないのに、行くというのは妙な感じだけれどね」
 ちょうどそのとき、ぎしっという音を立てて家が揺れた。 小さな地震だ。 まず縦揺れがきたので、立っていた志津は近くの柱に手を置いて体を支えた。
 兄の独楽も箱の中で動いた。 まず箱の台ですべり、それから軸の先を中心に円を描いて回ってから、外を指して静止した。 まるで立体的な矢印のようだ。 志津は鋭く胸を突かれたような気がした。
「お兄ちゃん、考えてみればこの独楽もガラスに閉じ込められているんだね。 そんなのはよくないね。 お兄ちゃんも嫌なんだ」
 衝動的に箱を開けて、独楽をふたつ一緒に袂に戻した。 母に叱られるような気がして、思わず周りを見てしまったが、決心は変えなかった。 これからは私の部屋に並べて置いておこう。 いや、夫婦の部屋になるのか。 どちらにしても、兄の形見をこの部屋に独りぼっちで残しておくのはよくないと、不意に思った。
「使ってこその道具だよね。 これからはどんどん使って回す。 子供ができたら、お兄ちゃんからの贈り物だと言って渡すよ」
 袂の上からそっと押さえると、木のぬくもりが伝わってきた。 兄を失った嘆きは歳月とともに、鋭い牙を失ってきていた。 だが鈍い痛みは常に心の奥に潜んでいて、思い出すたびに目頭が熱くなる。 大切な者は天国へ行くときに、残された人の一部を永遠に持ち去っていくのだと、志津は悟っていた。
 もう控えの座敷へ戻る時間だ。 志津は静かに障子を開けて廊下に出た。 離れにはすでに雨戸が閉じられていて、ランプがないと足元が真っ暗だった。
 すべるように歩いていく足元に、何かが並んでついてくる気配があった。 ハッハッという楽しげな短い息が聞こえる。 外の中庭をポチが巡回中で、志津が歩いているのを聞きつけてやってきたようだ。 志津は感傷的になり、ポチにも独身最後の別れを告げようと思いついた。
 雨戸に手をかけて、細く開くと、濡れ縁に前足を置いて嬉しそうに舌を出しているポチが目の前に見えた。 だが、志津の視線は一瞬のうちに犬をはじいて、背後の薄闇に飛んだ。
 そこには、影が浮いていた。 志津が手にしたランプの光がようやくかすかに届くほどの距離に、まったく動かずに静止していた。







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