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 お志津 142 辞職の後は



 峰山一族だけでなく、近在の村々にとってもめでたい話で、婚礼準備は皆の後押しでどんどんはかどった。 特に一族にとっては久しぶりの朗報だった。 甲斐介一家が残した汚名と借金の山のせいで肩身の狭い思いをした後だっただけに、期待は一気に高まった。
 志津は激しい流れに押し流されていた。 珍しく自分から努力しなくても、周りがおぜんだてしてくれる。 楽だったが、これではふがいないと思う気持ちが、胸の中にわだかまっていた。
 岡が帰還の挨拶に来た翌週、志津は学校を退職した。 そっと去っていこうと決めて、校長室へ辞表を出しに行ってそのまま廊下に出たとたん、生徒たちにワッと取り囲まれた。 どうやら戸に耳をつけて盗み聞きしていた子がいたらしい。
「お志津先生、もう辞めちゃうんですか?」
 吾市がドラ声で、ほとんど責めるように叫んだ。 志津は笑顔を絶やさず、両側からしがみつく少女たちの肩に手をおいて、できるだけ普通に答えた。
「岡先生がお戻りになったから、これで私の役目はおしまいなの」
「お志津先生が校長先生の奥様になっても、会いに行っていいですか?」
 半泣きになった春日弥生〔かすが やよい〕という子の声だった。 これならすぐ答えられる。 志津は子供達を見回して、力強く言った。
「もちろん。 私もみんなに会いたいもの」
「お志津先生に赤ちゃんできたら、私に子守させてください」
 両親が子沢山で、ほぼいつも弟や妹を背負っている鈴木泰江〔すずき やすえ〕の言葉に、志津は赤くなりながらもほろりとした。
「ありがとう。 皆さんこれからも元気で、しっかり勉強してくださいね」
「はい」
 ややしょぼくれた返事が戻ってきた。 志津は後ろ髪を引かれる思いで、うなだれそうになりながらも何とか胸を張り、通用口から裏門に向かった。 するとかすれた声が後ろから聞こえた。
「お志津先生〜!」
 志津は急いで振り向いた。 すると教員室の窓から恵庭先生が身を乗り出して、大きく手ぬぐいを振っていた。
 志津も袂を押さえて、強く手を振り返した。 さっき教員室で先生方に別れを告げたとき、男子教員たちは寂しそうな顔をしながらも、代理が辞めるのはある意味当然と割り切っていたようだったが、恵庭先生だけは本気で辛そうにしていたのを思い出した。


 名木が兄に書いた結婚の知らせに、承諾の返事が戻ってきたと聞かされたのは、学校を辞めた二日後のことだった。
「良縁だ、おめでとう、と書いてあったよ。 読む?」
 やっと親しみのある口調になった名木にそう言われたとき、志津は少しためらってから横に首を振った。 兄という人は、やはり地元で弟に妻を迎えたかったにちがいない。 名木のやや遠慮した言い方に、返信を目にしたときの内心の複雑な気持ちが現れていた。







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