表紙

 お志津 140 婚約の夜に



 縁結び役の村長、峰山作治にすぐ使いが出され、村長はあっという間に飛んできた。 ひどく喜んで、顔が満月のようにかがやいていた。 近隣で評判のやり手校長を引き止められたというのは、大きな人気取りになる。 これで次の村長選挙も当選間違いなしだった。
 ささやかながら陽気な酒盛りが始まり、日ごろはあまり飲まない名木も断りきれずに盃を干した。 着替えて現れた義春もかなり楽しげで、名木と話を交わしては、村長と乾杯した。
 宴の準備はすべてお蓉とお若がやってくれたため、志津は何もすることがなく、名木と並んでお雛様のように座り、にこにこしているだけだった。
 でも暖かい雰囲気に心はなごんだ。 両親がこんなに嬉しそうなのは久しぶりだ。 子供が志津一人になり、その志津も大人になって仕事でよく家を空ける今、家の中は静かすぎた。 これからは婿が増え、やがて跡継ぎが産まれる。 また家が活気付く。  そこまで考えて、志津は奇妙なほど実感がないのに気づいた。 敦盛とだと、いくらでも子供の夢を見ることができた。 夢で未来の赤ん坊を抱いたことさえある。 起きてからもまだ感触が胸に残っていた。 しかし、相手が名木校長だと……。
 志津はちらりと横を見た。 名木は乱れない。 わずかに顔が赤くなっているが、それ以外は酔いの気配はなかった。
 敦盛とはちがう意味で、男らしい人だった。 潔癖で毅然としていて、それでいながら子供たちにも大人にも慕われている。 見かけと違い遊び心もあり、時間があるときは生徒達と陣取り合戦などしていた。 ただし叱るときはびしっと厳しくて、村で有名な悪たれ小僧が縮み上がったほどだった。
 私にはもったいない──志津は名木の横顔から目をそらし、寂しいような気分になった。 名木先生はもっと幸せになるべきなのだ。 心から愛した人と一緒になれなかったなんて、何という不運だろう。

 村長は真っ先に酔いつぶれた。 義春も珍しく眠気に負けて座布団を枕に眠り込んでしまい、咲は娘に寄りかかって千鳥足で寝室に引き取った。
 廊下をさまよいながら、咲は盛んに娘に言った。
「よいことをしました。 あの方は大物です。 志津にはもったいないほどの良縁ですよ」
 ほんとにその通りです、と、志津は心の中でつぶやき、だんだん重くなる母を座敷へ連れ込んだ。 畳にはお若が気をきかせて、すでに布団が延べてあった。


 名木も離れに泊まった。 しかし翌朝早く目覚めて、志津が顔を洗い終わったときに裏口から出てきた。
「おはようございます。 昨夜は失礼しました」
 言葉遣いが折り目正しいままだ。 やはり名木のほうにも婚約した実感が沸かないのだろうと、志津は思った。
「こちらこそ、うわばみの叔父に付き合っていただいて申し訳ありませんでした」
「いや、うわばみというのはあんなものじゃありません。 うちの祖父はすごかったですよ。 戦勝記念に樽を一つ抱え込んで、三日かけて飲み干したそうです。 長生きできたのが不思議でしたね」
「五臓六腑がお丈夫だったのでしょう」
「なるほど」
 名木は小さく笑い出した。 彼は二日酔いの気配もなく、むしろいつもより明るい表情に見えた。







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