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 お志津 139 話が決まる



 その夕方、二人はわざと帰りを遅らせて、空が暗さを増してから連れ立って表に出た。
 外は晴れていたが上空は風が強いらしく、雲が飛ぶように満月の前を横切っては、金色の光をせわしなくかげらせていた。
 志津は名木と並んで、夜道をひたひたと歩いた。 これからずっとこうやって生きていくのだと思ったが、実感はなかなか沸かなかった。 たぶん名木のほうもそうだろう。 あれから他に誰も残っていない教員室でしばらく静かに話し合ったものの、二人はまったく触れ合わなかった。 こうして歩いていても、手をつなごうという気配すらない。
 あきらめに近い気持ちで、志津は考えた。 世の見合い結婚というものは、たいていこんなものなのだ。 少なくとも志津は名木の人柄を知っていて、好意を持っているし尊敬もしている。 馬には乗ってみよ、人には添うてみよ、というではないか。
 馬なら、かわいがればたいていなつくけどね、と、志津は密かに苦笑した。


 二人がそろって峰山家に着くと、ちょっとした大騒ぎになった。 迎えに出たお蓉が思わず高い声を出してしまい、驚いた母の咲が顔を覗かせて、たちまち玄関に駆けつけてきた。 日ごろは奥様らしくしとやかに歩くので、小走りになったのはおそらく若いとき以来だろう。
 名木は下へも置かない歓待で、神輿〔みこし〕のように客間へ連れていかれてしまった。 志津が笑いを抑えきれず、顔をほころばせて後をついて歩いていると、いきなり横の襖が開いて父が頭を覗かせた。
「どうした? 男の声がしたようだったが」
 義春は執筆が快調に進んでいたらしく、どてらの襟元が緩み、髪の毛は鳥の巣のように逆立っていた。 興が乗ると身振りが大きくなり、頭をかきむしる癖があるのだ。
「あ、お父様。 今日はこっちで書いていたんですか」
 父は唸った。
「そんなことはどうでもいい。 今の騒ぎは?」
 志津は大きな眼で父を見上げ、落ち着いて答えた。
「校長の名木先生です。 三時間ほど前に内輪で婚約いたしました。 今、正式に申し込みにこられたところです」
 義春はゆっくり頭から手を下ろすと、柱に寄りかかった。 顔はあまり動かなかったが、目に複雑な表情が浮かんでいた。
「そうか。 本当にそれでいいんだな?」
「はい」
「わかった」
 それから父は勢いよく向きを変え、小声で言い残した。
「すぐ行くから時間稼ぎを頼むと咲に耳打ちしておいてくれ。 いくら何でもこの格好ではな」


 名木の一族は山梨の名家であり、藩の勘定奉行を拝命したほどの家柄で、世が世なら志津の家でさえ格下だった。 だがいくら上級武士の子孫とはいえ、幕府がなくなって俸禄〔ほうろく:給料のこと〕が出なくなった今は中産階級で、もう釣り合いが悪いということはない。 それでも咲は大喜びで、目尻に涙をにじませながら、未来の婿のきりっとした顔をほれぼれと眺めていた。







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