表紙

 お志津 134 風の中の幻



 ともかく志津はいつものように、自分の部屋に行って着替えてから、母に帰宅の挨拶に行った。 父は書斎か裏の小部屋でペンを走らせているはずだが、執筆中に入っていって邪魔をすることはできないため、志津が父と顔を合わせるのはたいてい夕飯のときだった。
 きれいに整えられた和室の障子を開けると、母が立って電灯をつけているところだった。
「おかえり。 だいぶ日が短くなってきたわねえ」
「ええ、ほんとに。 ただいま、お母様」
 十月になるともう暑い日差しはなくなり、晴れた日は歩いて帰ってくるのが楽しかった。 ただ、その日は風が強くて、目に埃が入るほどて、今も志津は着替えた後に顔を洗ってきたところだった。
「外は吹き荒れていて、天気がいいのに空が黄色っぽくなっていますよ。 もしかすると台風の前触れかも」
 母は驚いて、座布団に座りなおした。
「まあ、そうなの? ここは奥座敷だから、表のようすはよくわからなくてね。 新聞の天気予報には書いていなかったけど、急に襲ってくるってこともあるでしょうね」
 強風の襲来で気をそらされたのか、咲は志津に何も言い出さなかった。 その後、日が落ちるにつれてますます風が勢いを増したため、一家は早めに雨戸を閉じ、直造は大事にしている植木の若枝を幹に縛って、折れないように手当てした。


 志津がランプを手に暗い廊下を歩いていると、ぱたぱたという音が外から響いてきた。 どうも裏木戸の掛け金が外れて、戸が風であおられているらしい。 志津は勝手口から外を覗いてみた。
 すでに裏庭は真っ暗だった。 風に運ばれて集まってきた雲のせいで、星も月もまったく見えず、かかげたランプの光がわずかに周りを照らすだけだ。 雨は降っていないので、志津は吹き飛ばされそうになりながら庭に出て、なんとか木戸にたどりつき、しっかりと閉めて掛け金をかけたが、その最中にランプの火を風に吹き消されてしまった。
 そのとき、不意に体がこわばった。
 唸りながら耳元を吹きすぎていく風の中で、志津はふっと、暖かいマントに抱きしめられたような気がした。
 理屈ではない。 現実でさえないだろうが、確かに志津は、敦盛がすぐ傍に寄り添って立っている気配を感じとった。
 懐かしさ、愛しさが瞬時に胸を突きやぶるほどにあふれた。 
「……敦盛さん?」
 志津は扉の前で独楽〔こま〕のように体を回し、見えない影に向かってささやきかけた。 震えをおびたかすかな声は、発した瞬間に強風にさらわれて、冬の息のように消えてしまったが。
 そのとき、勝手口の戸が押し開けられて、父の声が流れてきた。
「志津。 志津! いないのか? こんな天気なのにどこへ行った?」
「はい、お父様!」
 とっさに叫び返しながら、志津は生まれて初めて父が現れなければよかったのにと思った。 敦盛が異国に消えたと知った日から、志津は絶え間なく願っていた。 夢の中にでも、夜半の亡霊としてでもいい、もう一度敦盛さんに逢いたい。 そしてどんなに待っていたか、今もどんなに待ち続けているか、胸にすがって言いたいと。







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