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 お志津 133 嵐の予感が



 恵庭先生がおしゃべりというわけではない。 もしかすると誰かが立ち聞きして、悪げなしに言いふらしたのかもしれないが、ともかく名木校長が一刻も早くと花嫁を押し付けられそうになっているという噂は、あっという間に近くの町村に広がった。
 名家の出で教育委員会に好かれ、実力と人望がある上に男前、という、鐘や太鼓で探しても見つからないほどの若い校長を、村々はどうしても手放したくなかった。 だから前から囁かれていた噂が、一度に現実味をおびた。


 咲がその噂を聞かされたのは、だいぶ涼しくなって出かけるのが楽になった十月の半ばだった。
 行きがけはのんびりと、新しい傘を買ってくるわね、とお若をお供に出ていった咲が、半時間もしないうちに息を切らして戻ってきたため、お気に入りの松の枯れ枝を落としていた直造は、驚いて鋏を落としそうになった。
「奥様、どうなさいました? 外で気分が悪くなられましたですか?」
 咲は玄関で胸を押さえて座りこんだが、目は嬉しそうにらんらんと光っていた。
「いいえね、ようやく娘を嫁に出せる、いえ、三国一の婿を取れる機会がめぐってきたようなのよ」
「えっ」
 直造ははしごの上でのけぞり、自分が落ちそうになった。
「どういうことですか、奥様?」
「直造さん、名木先生のことは知っているでしょう?」
「はい、もちろんです。 志津お嬢さんの勤めている学校の校長先生です。 こちらへお見えになったこともありますし」
「あなたから見て、どう思った?」
 直造ははしごから降りて玄関前にかしこまり、頭に巻いた手ぬぐいを外して、上の空で額をぬぐった。
「どうもこうも、ご立派な先生様だなと。 あんなに若くして出世なさったのに、わしらにも気さくに挨拶してくださるし、ほんに育ちのいい方で」
「言うことなしね。 志津との相性もいいようだし」
 一緒に戻ってきたお若が口に手を当てた。 直造と困ったような視線を交わす。 二人とも名木校長に何の文句もないが、肝心のお志津の気持ちが心配だった。


 夕方になって、学校から帰ってきた志津は、門を入ったところで直造の異変に気づいた。 いつもなら大きな笑顔で迎えてくれるのに、その日に限って目をぱちぱちさせ、物置から薪を運ぶ手を休めもせずに、お帰りなさい、と小声で言っただけだったのだ。
 志津は心配になって、門を閉めるとすぐ直造に近づいた。
「ただいま。 どうしたの? お腹でも痛い?」
「いえ」
 直造は下を向いて唸った。
「どこも何ともありませんです。 それより志津お嬢さん、覚悟しておいたほうがいいですよ。 奥様がすっかり乗り気になっておられますからね」
 乗り気? はて何のことだろう。
 志津はまったく心当たりがなく、首をかしげながら玄関の方向に向きを変えた。







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