表紙

 お志津 129 秘密のまま



 その直後、汗を垂らした松治郎がラムネの壜をかかえて駆け戻ってきて、志津とお美喜の話はとぎれた。
 それでも志津の胸には、ほのかに温かいものが残った。 お美喜はおとなしいが、思いつめたら命がけのところがある。 だが彼女の一途〔いちず〕さには、たとえば鈴鹿の家に入りびたっている谷之崎梨加のような冷たさはなく、ひたすら熱かった。 そして献身的だった。
 お美喜さんが願ってくれた幸せが、やってきてくれるかな。
 帰り道、志津はひさしぶりに心から微笑を浮かべて、車窓の外を流れていく景色を見やっていた。 純粋な人間は美しい。 励ましに行って、逆にお美喜たちに励まされた気がした。


 それからは、下町に行くのが楽しみになった。 志津は松治郎の着物を元の屋敷から持ち出したと言って、せっせと縫って届け、母から本当に頼まれた二人分の下駄と一緒に持っていった。 着いたときに飯屋が開店していると、さっとたすきをかけて手伝ったりもした。 そんなことさせては寛太郎さんに怒られる、と、お美喜は困った顔をしたが、松治郎は喜び、先輩顔をして、お美喜が作る料理の名前や、料理をよそう器の種類をせっせと志津に教えた。
 三度目に訪れたとき、この前もいた常連客の一人が志津をつくづくと眺めて、真面目な表情で言った。
「お嬢ちゃん、あんたに持ってきてもらうと、なんだか恐縮しちまうよ」
「え?」
 盆を持ってしゃきしゃきと客席を回っていた志津は、冗談と受け取って笑いながら振り返った。 すると、その客の連れもうなずいて付け足した。
「うん、掃きだめに鶴だからよ」
 とたんに狭い調理場からお美喜の陽気な声が飛んできた。
「どうせ、うちは掃きだめですよ」
「いや、違うって。 おかみさんは当然、鶴だぁな。 でもあんたは人のもの。 この娘さんは手つかずだろう?」
「なあ、悪いことは言わない。 変な虫に目つけられないうちに、いい男をみつくろって所帯を持ちな」
 どう受け答えしていいかわからず、志津は空になった角盆を前に下げて、実直そうな中年男二人を見た。 すると調理を終ったお美喜が出てきて、あっさりと説明した。
「このお嬢さんはうちの人の親戚なの。 たまに手伝ってくれるだけだから、どうか悪い虫なんて連れてこないでね」
 男二人はワッと笑い、他の客もにこにこしていた。


 その日、お美喜はなんだかうきうきしていた。 夕方になって志津が帰る時間になったとき、そのわけがわかった。
 志津がいつものように手を貸して、赤ん坊の静江をお美喜におぶわせてあげていると、前できちんと紐を結んだ後、お美喜は懐から出したらしいくしゃくしゃの葉書を志津に渡した。
「戻ってくるんですって、ようやく。 横須賀で解散式だか何だかやって、たぶん今週中には」
「よかった!」
 葉書によると、寛太郎たち新兵は本土での訓練中に終戦を迎え、外地に出ることなく全員無事だった。
「これで一安心ですね」
「ええ」
 そこで改まって、お美喜はうるんだ黒目がちの瞳を志津に向けた。
「お世話になりました。 ほんとに心強かった」
「頼りがいのない小娘ですけど、そう言ってもらえると嬉しいです。 お美喜さんがさっき話していたとおり、私たち親戚だから、どうかうちにも来てくださいね」
 するとお美喜は長い睫毛を伏せ、考え考え口にした。
「あちらに住まないかと言ってくだすったそうですね。 うちの人が嬉しそうに言ってました。 お宅の方々には恨まれてもしかたがないのに」
 志津は心から驚いた。
「寛太郎ちゃん……いえ、寛太郎さんを恨むなんて、とんでもない! 親の因果が子に報いるなんて、そんな話はありません。 このお店が繁盛しているのを見て、こちらで幸せに暮らしているのに余計なことを言ったかなと思いましたが、いつでも帰れる里があるというのも安心でしょうし」
「ええ、そうですね」
 お美喜の声が夢見るようにやわらかくなった。
「私には故郷がないんです。 捨て子だったもんで」
 志津はぎょっとして、おもわず顔をこわばらせた。 その表情を見て、お美喜はわずかに微笑した。
「あら、ご存知なかった? 寛ちゃんったら、口が堅いんだ」
 子供が悪さをすると、よく親は、橋の下に捨ててしまうよ、と脅す。 小さな子には、捨てられるというのが一番の恐怖だ。 なのに実際にそんな目に遭わされていたとは。
 志津はうとうとしている静江の頭を撫で、ふるえる声で呟いた。
「こんなに可愛くて愛しいものを、置き去りにするなんて」
 お美喜の口が、への字に歪んだ。
「お寺の玄関先に、背負い籠に入れたまま置かれていたんだそうです。 書置きはなかったけれど、身奇麗でよく太った赤ん坊だったと、和尚〔おしょう〕さんが」
 たまたま寺の住職には子供がいなかったため、大黒さん(住職の妻)が育ててくれたという。 近所の紹介で十五のときに奉公に出た。 まじめに勤めていたが、雇い主の息子に追い回されて我慢できなくなり、飛び出した。
「お寺に帰ればよかったんだけど、紹介してくれた人の手前もあるし、もうまともに嫁にいける身じゃなくなったんでね。 それで飲み屋に。 男なんてみんな大っ嫌いでしたよ。 寛ちゃんに逢うまでは」
 志津はお美喜とまっすぐ視線を合わせ、静かに言った。
「打ち明けてくれて嬉しいです。 そこまで打ち解けてくれて。 寛太郎ちゃんはあなたが大事で、それで黙っていたんだと思います。 私も寛太郎ちゃんにならって、誰にも言いません。 他人が知る必要のないことですから。 私、好きな人が余計なことであれこれ言われるのが嫌いなんです」
 好きな人、と、お美喜は口の中で呟いた。 それから無言で、志津に深々と頭を下げた。







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