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お志津
128 不思議な仲
戦争は、始めるより後始末のほうがはるかに大変だ。 勝った日本も、形勢不利になって内乱が起きかけた露西亜も、もやもやとした不満を残したまま、ようやくポーツマス条約が結ばれて、次第に世の中が収まってきた。
志津は八月中に三回、東京市の下町に出向いて、お美喜と松治郎を励ました。 二人は飲み屋ではなく、わりとちゃんとした一膳飯屋の二階に住んでいて、松治郎は近所の小学校に通い、放課後は立派に店の手伝いをしていた。
松治郎が明るさを失っていなかったので、志津は心からほっとした。 あいかわらず元気で人なつっこく、志津が最初に彼の好きな羊羹玉〔ようかんだま〕を手土産に訪ねてきたとき、飛びついて喜んだ。
初めて会うお美喜という人は、志津が予想していたのとは少し違っていた。 もっとしゃきゃきした小粋な美人かと思ったが、ほっそりしていて長い睫毛を伏せがちな、むしろ物静かな女性だった。
理由はよくわからないが、志津はお美喜を一目見て好きになった。 今は生活に疲れ、背中に負った元気な赤子に時間と手間を取られて、やつれて見える。 だが松治郎が信頼し、しきりに話しかけている様子から、共に住んで間もないのにすっかり頼りあっているのが感じられて、ほほえましかった。
「母に頼まれて、おむつの替えを持ってきました」
顔を合わせたとたん、挨拶も忘れて、志津はすぐ本題に入った。
「こればっかりは洗いざらしのほうがいいですからね。 それに何枚あっても困ることはないし」
「ありがとうございます」
お美喜のほうも、初対面とは思えないさっぱりした口調で、すぐ話の調子を合わせた。
「狭いところですが、まあお入りになって」
「ではお邪魔します」
すぐに中へ入れてもらうと、志津はおぶい紐を解くお美喜を手伝い、泣き出した赤子をひょいと座布団へ寝かせた。 そして言った。
「ちょうどよかったですね」
おむつが濡れて、赤ん坊は気持ちが悪くて泣いていたのだ。 お美喜は志津のとぼけた口調に笑みをこらえきれず、顔を崩したままで手早く取り替えた。
「お茶をお出ししたいんですけど、今日はいかにも暑いですね」
「ほんとに。 ラムネでも買ってきましょうか」
とたんに松治郎が目を輝かせた。
「売ってる店知ってるよ。 ぼくが買ってくる」
ラムネはレモネードが日本式になまってそう呼ばれるようになった炭酸飲料で、明治の初めにあの特徴のある壜に入れて居留地のイギリス人が売り出し、その後日本の工場でも作られるようになって、今ではよく飲まれていた。
お美喜が出した小銭を握って、松治郎がかんかん照りの戸外へ走り出ていった後、女ふたりはうとうとし出した赤ん坊を真ん中に、話しはじめた。
お美喜は何のてらいもなく、淡々と言った。
「私のほうからあの人を誘ったんです。 悪いのは私です」
志津も同じように、へだてのない様子で答えた。
「よし悪しじゃありませんよ。 好きになったらあばたもえくぼ、ですから」
お美喜は一瞬あっけに取られ、それからプーッと噴き出してしまった。
「どっちがですか? 私があばた?」
「まさか」
志津はあきれて首を振った。
「もちろん寛太郎ちゃんですよ。 顔は確かに並み以上だけれど、愛想はないし口は悪いし、気持ちが通じないこと、よくあるでしょう?」
「ああ」
少し考えて、お美喜はうなずいた。
「見た目よりずっと頑固ですよね。 でもそこがたまらないんです」
「たまりませんか」
「ええ」
志津はそっと膝を進めて、お美喜の荒れた手を取った。
「寛太郎ちゃんはいい人とめぐり合ってよかった。 私よりずっと、あなたのほうが寛太郎ちゃんのことをわかってらっしゃる」
お美喜は伏せていた目を上げて、おどろくほど美しい瞳で志津を見すえた。
「でもね、寛ちゃんがあこがれていたのは、お志津さま、あなたですよ」
志津はお美喜の強い視線に耐え、真剣に答えた。
「いいえ、それは違う。 私には昔からわかっていました。 寛太郎ちゃんは友達としての私が好きなんです。 女としてじゃない。 だからじれったかったし、悔しいときもありました。 でも恋をしてみて……」
さらっと言い切れるはずだったのに、そこで無念にも言葉が詰まった。 すると今度は、お美喜が志津の手をぐっと握り返した。
「ひとの許婚を横取りした女が言うことじゃありませんが、お嬢様はきっと幸せになられます。 私には霊感があるんです。 大した力じゃないですが、ここに」
と、胸を押さえてささやくように告げた。
「今ぴんと来たんです。 お嬢様はかならず幸せになられます」
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