表紙

 お志津 127 戦い終えて



 志津は村のはずれまで寛太郎を送った。
「志津ちゃんの居場所は、吾市が教えてくれたよ」
 吾市とは松治郎の親友で、祭りの日に仲良く鬼ごっこをしていた男の子だった。
「松が元気にやっていると話したら喜んでいた。 吾市が言ってたが、志津ちゃんはこっちへ帰ってきて、今は高等小学の先生をしてるんだって?」
「戦争が終るまでよ。 元の先生たちが戻ってきたら、すぐ席を空けるわ」
 少し間を置いた後、寛太郎はぎこちなく言った。
「鈴鹿のこと、気の毒だった」
 志津の胸が激しく痛んだ。 予想していた言葉だったのに、人の口から敦盛の名を聞くたびに、心臓が生き物のようによじれる。
「寛太郎ちゃんはお葬式に呼ばれた?」
 寛太郎はびっくりして立ち止まりかけた。
「いや。 それより、どういう意味だ? 志津ちゃんは奴の葬式に行かなかったのか?」
 まっすぐ前を見たまま、志津は感情を見せない声で答えた。
「日にちを知らせてもくれなかった。 私のせいで早く出征したと恨まれているの」
「馬鹿な!」
 寛太郎の大声に驚いて、近くの木に止まっていたカラスがしわがれ声で鳴きながら飛び立っていった。
「志津ちゃんのせいでなんかあるものか! あれは鈴鹿の親父が考えたことなんだ。 俺は前から疑っていた。 志津ちゃんから引き離すために、親父が工作したんじゃないかと」
 今度は志津の足が動かなくなった。 つられて立ち止まった寛太郎は、引きつった顔で説明を始めた。
「鈴鹿は志願に乗り気じゃなかった。 でも厳しい海軍よりは陸軍のほうがましだと説得されて、戻ったらすぐ志津ちゃんと一緒になるという約束で出ていったんだ。 鈴鹿の親父は最近、おかしいんだよ。 急に派手になって、金遣いが荒くなったそうだ。 鈴鹿は理由を言わなかったが、家の中でごたごたがあったのはまちがいない。 奴を犠牲にしたのは志津ちゃんじゃない。 あの親父さ」


 おれは石にかじりついても戻ってくる、女房子供と弟のために、と言い残して、寛太郎は志津の手を初めて自分からぎゅっと握りしめた後、鼎山へ登って行った。
 彼の姿が見えなくなるまでポチと共に見送った後、志津はとぼとぼと帰路についた。 思いは大波のように揺れ、あらためて悲しみがこみあげてきた。
 結婚の許しを得るために、敦盛が早めに志願したのなら、やはり責任の一部は自分にある。 そう思えてならなかった。










 寛太郎と逢った三日後、八月十日になって、ついにアメリカのポーツマスで日本と露西亜の講和会議が開かれた。
 日本はすでに樺太〔からふと〕全土を手に入れていたが、会議の結果、北緯五十度線まで撤退させられて、樺太の南半分と千島列島を正式な領土と認められた。
 そこで国民は少なからず怒りを感じていたが、やがて露西亜から賠償金がまったく取れないと知って、今度こそカッとなった。 報道機関はそれまで景気のいいことばかり書いていたものの、実際は日本も露西亜も戦いが長くなりすぎて、戦費を使い果たしてしまい、どちらもぎりぎりの状態で苦しんでいた。 露西亜は払うに払えず、日本もそれ以上露西亜を脅す力は残っていなかったのだ。
 そんなことは知らない一部の人間が暴走して、日比谷公園で暴動を起こし、警察署に火をつけた。 新聞で記事を読んだ義春は、首を振って呟いた。
「みんなお国のためにずいぶん犠牲を払ったからな。 賠償金が手に入れば生活が楽になると期待していたんだよ。 それにしても志津、都心にいなくてよかったな。 巻き込まれたら大変なところだった」
「お父様も。 出版社との打ち合わせが二日延びてよかった」
 そう答える志津の声に、いつもの張りはなかった。 義春はすぐ気づいて、心配そうに娘の顔を覗きこんだ。
「どうした? また暑さがぶり返したんで、調子が悪いか?」
「いいえ」
 今度こそ長い戦争は終った。 寛太郎はたぶん無事に帰ってくるだろう。 志津も、敦盛のいないこれからのわびしい人生に耐えなくてはならないときが来たのだった。







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