表紙

 お志津 126 彼も招集を



 直造がひろってきた子犬のポチは、暑い中でも元気に動き回り、家族みんなにかわいがられて、すぐ全員になついた。
 やがて志津は、ポチを連れて近くへの買い物や散歩に行くようになった。 初めはそんなつもりはなかったのだが、子犬のほうがついてきてしまって、いちいち家に連れ帰るのが面倒になったのだ。 外へ出ないように縄でつなぐと、最初は鼻声のヒンヒンだったのが、すぐキャンキャンという甲高い鳴き声に変わって、近所迷惑になる。 それなら楽しく一緒に行ったほうがましだった。
 二人の姿は、すぐ村の子供たちの眼に留まった。 犬好きは喜んでついてくるし、そうでない子も遠巻きにして、志津には遠慮なく話しかける。 いつの間にか、一人と一匹は『桃太郎先生とポチ』ということになってしまった。
 たまに子供がいないとき、志津はポチに話しかけた。
「ねえポチ、おまえのお母さんはどこにいるんだろうね。 会いたいかい?」
 子犬は小川のほとりをくんくん嗅ぎまわりながら、短く巻いた尻尾を振った。 志津は買い物袋を振ってみせた。
「今日はモツを買ったよ。 煮たらひどい臭いがするだろうけど、おまえにはごちそうだ。 犬も栄養を取らなくちゃね」
 ポチは水面すれすれに飛ぶ鬼ヤンマに気を取られて、転げるように走っていった。 だが、志津が立ち上がって歩き出すとあわてて向きを変え、ピュッと横を通り過ぎてから、また戻ってきた。
 そんな無邪気な姿を見ると、つい兄のことを考えてしまう。 兄の定昌も生き物が好きだった。 でも、家に犬や猫を置くとつい一緒に遊んでしまい、体によくないということで、峰山家ではずっと猫も犬もご法度〔はっと〕だったのだ。
 こんなに犬をかわいがると、今でも兄に悪いような気がする。 しみついた癖はなかなか抜けないものだ。 志津は小さく溜息をつき、重みを増した買い物袋を持ち替えて道の角を曲がった。
 そのとたん、足が止まった。 道の向こうから人が来る。 覚えているより背が高いが、それはまちがいなく、成長した昔の婚約者、郡寛太郎〔こおり ひろたろう〕の姿だった。
 志津が気づくのとほとんど同時に、寛太郎も彼女を見て、足を止めた。 それから大股になって、ぐんぐん近づいてきた。 若い男が駆けつけてくるのを見たポチは、あせって志津の後ろに隠れ、着物の裾から目だけ出して覗いた。
 寛太郎はポチに気づかなかったらしい。 ただ志津の顔だけをまっすぐ見つめ、口を一文字に結んで前に立った。 そして、力強い声で言った。
「おれもとうとう、軍隊に行くことになった」
 志津の喉が、大きく動いた。 敦盛を波止場で見送った日の、木枯らしが胸を吹きぬけるような寂しさが、記憶を一杯に占領した。
「どうか無事で」
 その言葉しか出なかった。 寛太郎は強くうなずき、早口で続けた。
「志津ちゃんにはどうしても、一言別れを言いたかった。 それに、知ってほしいこともあった。 弟の松治郎だが、おれが引き取って育てているんだ」
「まあ、よかった!」
 志津は思わず両手を打ち合わせた。 久しぶりに聞いた良い知らせだ。 松治郎は悪事を働いた両親と逃げ回っているのではなく、所帯を持った兄のところに身を寄せていたのだ。
「うん、親たちがこっそり来たとき、無理やりに取り上げたんだ。 松には将来がある、学校に行かせなくてどうするつもりだ、と言ったら喧嘩になったが、これだけは譲れなかった」
 男らしくなった寛太郎の顔が曇った。
「親父の不行跡にはまったく言葉もない。 おじさんに迷惑をかけて本当に申し訳ないと、寛太郎が詫びていたと伝えてくれるか」
「ええ、でも寛太郎ちゃんの責任じゃないわ。 あなたは自分の腕で生きてる。 立派だと思うわ」
 志津は心から、幼なじみにそう告げた。
 寛太郎は顔をゆがめ、視線を落とした。
「そんなことはない。 おれは長男だから、本来は村に戻って家を建て直し、おやじの罪をつぐなわなくちゃいけないんだ」
「戦争が終ったら戻ってきて。 お美喜さんや松治郎ちゃんと一緒に。 売れる土地はみんな売ってしまったけれど、まだ地所の四分の一は残っているし、古いほうの屋敷もあるわ。 三人家族で住むには充分よ」
 ぽっと寛太郎の頬が赤らんだ。
「いや……実は四人になった」
「まあ、おめでとう!」
 勘のいい志津はすぐ悟り、笑みくずれながら寛太郎の腕を叩いた。
「寛太郎ちゃんが、お父さんに?」
「まあな。 女の子で、ついふた月まえに生まれたばかりだ」
 そこで寛太郎の眼が真剣になった。
「だから、後に残していくのが心配で。 金は、出征がわかってから稼げるだけ稼いで、貯金も全部お美喜に残した。 あいつもしっかり者で細かく貯めているから、当座の生活はしのげるはずだ。 だがお美喜には頼る親戚がいないし、松のやつもいるし、心細いと思うんだ。 戦いがまだ長引いたら、一度でいい、あいつらの様子を見に行ってくれないか? こんなことは、志津ちゃんにしか頼めないんだ」
 話の途中から、もう志津は大きくうなずいていた。
「ええ、行くわ。 松ちゃんにも会いたいし、赤ちゃんも見たい。 寛太郎ちゃんに似てる?」
「ああ、目元がな」
 気まり悪げに呟いた後、寛太郎は懐から折りたたんだ紙を出して、志津に渡した。
「これが家の住所だ」
 大事に懐へしまいこみながら、志津は訊いた。
「で、赤ちゃんの名前は?」
 一拍の間を置いて、寛太郎は答えた。
「静江だ」
 しずえ?
 志津は一瞬固まった。
「まさか……」
 寛太郎はぶつけるように続けた。
「志津ちゃんとは字が違うけどな。 静かっていう字と、入り江の江だ。 お美喜のほうが言い出したんだ。 『あんたを引っさらって悪かったけど、どうしても一緒になりたかった。 なのに一言も文句を言わずに許してくれた心のきれいなお志津さんのような娘になってほしい』 そう言ってた」








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