表紙

 お志津 125 夏に来た犬



 電車の駅に着いて、志津と名木は挨拶を交わして別れた。
「それではまた登校日にお会いしましょう」
「これから一段と暑くなりそうですので、お体大切に」
「ありがとう、あなたも」
 名木は微笑んでそう言うと、灰色のズック製の鞄を下げて歩廊(=プラットホーム)の端へ歩いていった。 その鞄は前に教師として勤めていた中学校の父兄から、記念にもらった物だそうだった。
 きっと学生にも親にも好かれていたのだろう、と志津は革の縁取りがついた頑丈な鞄を見送りながら思った。 名木は物静かで公平で、めったに声を荒げたりしないが、本気で怒ったときは非常に迫力がある。 禁じられているのに大木のてっぺんまで登って降りられなくなった腕白坊主が、一喝されて縮み上がり、腰を抜かしたことがあった。 でも気の弱い子には決して冷たくしないし、女の子の一部がべたべたしてきても甘い顔は見せない。 名木は志津がこれまでに会った中で、一番理想に近い先生だった。


 駅から家までは、ひさしぶりに人力車に乗って戻った。 そして、実家に帰る校長を見送りに行ったことを話すと、母は考え込んだ表情で言った。
「名木校長先生はまだ三一ですってね。 あのりりしいお顔立ちでは、さぞもてるでしょう。 きっと故郷ではお見合い話が山のように待っているわね」
 それからちらりと娘の様子をうかがった。 だが志津はたまたま母の言葉を聞いていなかった。 裏から来たお若が息を弾ませて、お昼前に直造さんが犬を拾ったんですよ! と知らせる声にすっかり気を取られ、連れ立ってばたばたと物置のほうへ走っていってしまった。
 そこで咲はじれったそうに溜息をつき、額にしわを寄せて呟いた。
「あの子、まだまだ子供ねえ」


 庭では、直造と勝次だけでなく、縁側に父の義春まで出てきて、はしゃぐ栗色の毛玉を面白そうに眺めていた。 根っから動物好きな直造は、義春に頼み込んで飼うのを許してもらったらしかった。
「わしが物置の隅で面倒見ますから。 ほら、足ががっちり大きいでしょう? こういう犬は丈夫で、いい番犬になりますよ」
「雑種だな。 オスなのは助かるが」
 子犬は甘えて腹を見せて転がり、撫でてもらうとはあはあ息をついて喜んでいた。
「鶏小屋へ入らせないように頼むよ。 雌鶏がおびえて卵を産まなくなると困る」
「こんりんざい入らせません」
 直造は真剣な表情で誓った。 志津も直造の隣にしゃがみこみ、丸っこい犬の頭を撫でた。
「なんて名前にする?」
 志津に訊かれた直造は、それまで考えていなかったらしく、首をかしげて固まってしまった。 すると勝次が陽気に口を挟んだ。
「ポチがいいですよ。 異人がよく犬につける名前だそうで、今はやってるんです」
 本当はポチではなく、プッチと呼んでいたらしいが、発音が異なるため日本人にはポチと聞こえたようだ。 義春はにやにやしながら、どう見ても日本犬のあれこれが混じっている感じの子犬を見下ろした。
「クマとかヨイチとかいう名前が似合いそうな犬だがな。 まあ珍しい名前だと区別がついていいだろう」

 







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