表紙

 お志津 124 寂しい未来



 こうして志津と恵庭先生の女二人に名木校長が加わって、校門からのんびりと外に出た。 長期休みのの開放感があるのは、教師たちも生徒と同じだ。 まだ運動部の特訓などはないので、二日間の登校日だけ学校に来ればいい。 三人は特にわけもなく陽気になって、両手に一つずつ包みを下げた姿で道を進んでいった。
 とりとめのない話をしながら歩いていると、やがて横を抜けていった市電から声がかかった。
「こりゃあどうも、校長先生にお志津先生」
 三人がいちどきに顔を上げた。 開いて風を入れている窓辺に、流行りはじめた硬い麦藁帽子、一般にカンカン帽と呼ばれるものを脱いで手に持ち、扇子代わりにあおいでいる赤ら顔の男性が笑顔で座っているのが見えた。 恵庭先生がプッと噴き出して、窓の男に呼びかけた。
「まあ、そんなところで何を?」
 のんきな返事が通り過ぎていった。
「そりゃお前さんを迎えに来たんじゃないか。 どうせ荷物を溜めこんでいるんだろうと思ってね。 そしたらやっぱりだ」
 男性は恵庭先生の夫で、谷中のほうで履物店を営んでいる恵庭三郎氏だった。
 先にどんどん行ってしまう電車を目で追って、名木が笑いをふくんだ声で言った。
「いつもながら、いい旦那さんだ」
「ええ、まあ」
 謙遜するでもなく、恵庭先生はさらっと答えた。
「ぼんぼんの四代目ですからね。 人がいいのが取りえなんです」
「奥様思いの優しい方ですわ」
 何度か会ったことのある志津は、心をこめて言った。 三郎氏は教師をしている妻が自慢で、ときどき学校に立ち寄っては二人で外食をしていく。 小柄な夫と大柄な妻は並ぶと背丈がほとんど同じで、肩を寄せ合って帰っていく姿を生徒たちは「だるまさん二つ」と冗談で呼んでいた。
 やがて三人がたどりついた停留所には、先に着いた三郎が帽子をかぶって待っていた。 そして校長と志津に挨拶し、また秋もうちの奴をよろしくお願いいたします、とていねいに頭を下げて、風呂敷包みを受け取って次の電車を待った。
 本当に対のだるまのような夫妻の立ち姿を後に、志津は名木と歩き出した。
「仲むつまじい夫婦って、いいもんですね」
 長い夏の日もそろそろ夕暮れに近づき、影がのっぽになって道に伸びていた。 荷物が半分に減り、身軽になった名木は、不意に長い脚を伸ばして志津の影を軽く踏んだ。
「さっき校庭で、佐藤たちがこうやって遊んでいました。 ふと思い出しましたよ、故郷で柔道の稽古の帰りに、仲間の影を追って走り回ったことを。 練習で疲れているはずなのに、遊びとなるとまた力が沸いてくる。 子供のころは無邪気に楽しかったなあと」
 話を聞いていて、志津も遠い眼差しになった。 今の生徒たちの年頃、彼女はちっともじっとしていなかった。 誰かが永遠にねじを巻いて動いている兵隊人形のようだ、と、兄にからかわれたことがあったっけ。
 でも人はいつか大人になり、いろんなものを失う。 子供時代の尽きぬ好奇心は、まだいくらか残っているが、もう半日遊び通す元気はない。 そして兄は天に去り、次に守ってくれた大切なひとも、硝煙の中に消えていった…… 「子供時代は短いけれど、幸せでした。 おとなになったら親の責任を肩代わりして、今度は自分が家を支えていかなければならない。 ですから私も恵庭さんのような旦那様がほしいです。 だるまさんのように石の上にも三年、辛抱強くて頼りになる人が」
 冗談めかして言う志津の瞳には、空虚な翳りが揺れていた。
 







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