表紙

 お志津 123 親しくなる



 すずやかな名木の眼が、同情をこめて志津の横顔に向けられた。
「許婚を旅順で失われたそうですね。 ついこの間聞きました。 校長室にいると、なかなか耳に入ってきませんでね」
 志津は無意識に力を入れて、またごしごし机をこすった。 敦盛を殺〔あや〕めた露西亜兵を、このようにすりつぶしてやりたかった。
「……かならず生きて戻ってくると、信じておりました」
「お察しします」
 そうささやくように言ってから、名木はいくらか声を高くした。
「ありきたりのお悔やみを言っているんじゃありません。 わたしにも辛い別れがありましたから。 幼なじみの娘がいまして、わたしが学校を出て職に就いたら一緒になる約束をしていました。 でもその半年前に、その人は労咳〔ろうがい:肺結核〕で世を去りました」
 志津はばねのように顔を上げた。 肺結核は脚気〔かっけ〕と並ぶ国民病で、発病すると死にいたる確率が非常に高く、約半数が死亡したといわれている。 まだ薬は発明されておらず、一番いい治療法は栄養のあるものを食べ、体を休めて抵抗力をつけることだった。
「何と申し上げたらいいか……」
「いや、何も言わないでください」
 そう答えて、名木は泣き笑いに近い表情を浮かべた。
「この話はここでは誰にも言っていません。 お志津先生も黙っていてくださるとありがたい」
「はい、もちろんです」
 これまでにない仲間意識を感じながら、志津は繰り返しうなずいた。


 その夕べから、二人の距離がいくらか縮まった。 といっても学校ではあくまでも校長と教師で、しっかりと節度を守っていたが、たまに村道で行き会ったりすると親しみをこめて笑顔で挨拶し、仕事以外の会話を短く交わすようになった。
 独り身の若い男女で、おまけに二人とも目立つので、夏休みが始まるころにはそこはかとなく噂が立ちはじめた。 露骨なものではなく、あのお二人はなかなか似合いじゃないか? というぐらいの軽い噂だったが。
 当の二人はそんなことは知らず、試験結果の統計や成績表作りにいそしんだ。 そして生徒だけでなく教員たちも楽しみにしている終業式の日が来た。
 公立学校は、すでに四月入学、三月卒業の制度になっていた。 だから子供達は夏休みの宿題を課せられ、学用品とともに風呂敷に包んで、内心不満たらたら手に提げていた。
 校長の短い訓示がすむと、志津がオルガンを弾いて皆で校歌を歌い、解散となった。 開放感に満ちあふれた男子生徒たちは、七月末の照りつける太陽をものともせず、走ったり相撲を取ったりして土ぼこりを舞い上げながら、飛び出していった。 男子とは別校舎の女子生徒はもっとおだやかに、友達同士寄り添ってなごやかに話しながら家路についた。 中には背中に妹や弟を背負っている子もいた。
 志津がいったん教員室に戻ったところ、仲良しの恵庭〔えにわ〕先生が五幅〔いつはば:約一八○センチ四方〕の風呂敷に愛用の座布団やら春先に羽織っていた綿入れやらまで詰め込んで、必死に背負おうとしているのを見つけた。
「まあ先生、お手伝いしましょう」
 そう言って背後から押し上げたものの、重いし大きすぎて、今度は前につんのめりそうになる。 可笑しさをこらえて、志津は予備に持ってきた三幅〔みはば:約一○五センチ四方〕の風呂敷を持ち出してきた。
「それではあまりにもお気の毒ですから、こちらに分けて一つずつ持ちませんか?」
 恵庭はどさりと大包みを床に置き、のけぞって笑い出した。
「確かにまるで夜逃げだわ。 いえね、少しずつうちに持って帰ればよかったんですよ。 でも面倒でつい放っておいて、罰が当たりました」
 男の先生たちは遠慮なく笑いながら、挨拶をして次々に教員室を出ていった。 志津が大荷物の仕分けを手伝い、重いほうを自分の風呂敷包みと合わせて持ったとき、名木校長が通りかかりに廊下から覗いて、ひょいと入ってきた。
「これは大変そうだ。 わたしも一つ持ちましょう。 帰る方向が同じだから」








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