表紙

 お志津 121 変な思い出



 香りの正体は、すぐわかった。 座敷に通された名木〔なぎ〕が帽子を取り、きちんと座ってから、懐に入れていた手ぬぐいと扇子をそろえて前に置いたからだ。 その大ぶりな扇子の骨には細い透かしが入っていて、白檀〔びゃくだん〕で作られていた。
「峰山村長から伺いました。 うちの学校で教えていただけるそうで」
 志津はまっすぐ校長と目を合わせて答えた。
「はい。 微力ですが非常時のお役に立てればと思いまして。 戦争に勝ってお二人の先生がお戻りになったら、すぐ職務をお返しします」
 すると名木は慌てたように手を動かした。
「いえ、前から欠員が出ていたのです。 できればずっと勤めていただければと願っておるのですが」
 そこで彼は、困ったように秀でた額を撫でた。
「実は早々と、あなたのお名前を朝礼で出してしまったのです。 とたんに校庭に並んでいた生徒達がワッと歓声を上げて、驚きました。 有名人でいらっしゃるんですね」
 志津はあやうく、にやにや笑いを押さえこんだ。 遊び仲間の子供達が面白がって、蛮声を張り上げたにちがいない。 連中は志津が一緒に遊んでくれると勘違いしているのだろう。
「小さいときに面倒を見た子供達が、きっと思い出して騒いだのでしょう。 教える立場になりましたら、もう近所のおねえさんではないと言いきかせます」
「いや、別にうるさくはなかったのですが」
 そう言って、名木は顔を崩した。 すると思いがけないほど優しい表情になった。
 そこへお蓉がすました顔で、茶を運んできた。 名木はちゃんと礼を言って受け取った。 その態度で、志津は一段と彼を尊敬するようになった。 まだ三十前後だろうに校長職を拝命しているのは、相当優秀だからだ。 だが彼には選ばれた者の高慢さが感じられない。 さらに言えば、これほどの美丈夫で自分を意識せず自然体のままでいる男性を、はじめて見た。 それだけでも大したものだ。


 志津も名木もよけいなことは言わないほうなので、すぐに話は学校で何を教えてほしいかに移った。 志津が女学校で社会科を教えていたと知って、名木はひどく喜んだ。
「そうですか! 実は出征した山崎先生が地理と歴史を教えていたんですよ。 ぴたりと合いましたなあ。 それからあつかましいお願いなんですが、オルガンをお弾きになるとか」
「はい、女学校で一年ほど習いました」
「それでは音楽の授業も受け持ってもらえませんか? 学級担任ではないので、時間はあまり取られないですむと思うのですが」
「はい、私でよろしければ」
 ほくほくしている校長をよそに、志津は内心考えた。 女学生のときは元気が良すぎて、オルガンの踏み板を思いっきり使って最大の音を出そうとして、空気を送る大袋を破ってしまったことがある。 裁判官の叔父に頭を下げて修繕費を貸してもらうとき、叔父が腹を抱えて笑っていたのが思い出される。 女にしては脚の力が強すぎるのだ。
 今度は気をつけて上品に演奏しよう。 そう志津は自分をいましめた。







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