表紙

 お志津 118 大事な家族



 また、咲にとっていい友達だった珠江の裏切りも、ひどくこたえたはずだった。
 甲斐介と珠江夫妻の身勝手な行動は、村の人々に大迷惑をかけただけではない。 二人の長女の沙代〔さよ〕にも世間の風は冷たく、婚家で小さくなって暮らしていて、客の前には出るなと言い渡されているという噂が流れていた。 仲のいい夫婦だから夫が庇って、離縁の話が出なかっただけ、まだよかったといえるだろう。
 母の思わぬ姿を見て、志津はただちに行動に移った。 まず父に相談し、これからしばらく麦飯とたくさんのおかずにしてみましょう、と提案すると、父はとても驚いて青くなった。
「なんてことだ! わたしの油断だ。 忙しさにかまけて、母さんの顔を満足に見ていなかった。 少しずつ変わっていくと、なかなか目に入らないものなんだな。 そういえばお蓉に言われたことがあったよ。 奥様に元気がないし、少し足弱になられたと」
 珍しく取り乱して髪を乱暴にかき回す父を、志津は懸命になぐさめた。
「お父様のせいじゃありませんわ。 誰が悪いと言えば、それは娘の私です。 お母様がしっかりしているからといって頼ってばかりで、孝行らしい孝行もせず、他所へ働きに行ってしまったのですから」
 兄、敦盛さん、その上に母まで失ったら!
 志津は全身が総毛立つ思いで、覚悟を決めた。 どんなに好きで、ぴたりと合った職場でも、もう居続けることはできない。 家に帰って義務を果たすときが来たのだ。


 その晩、志津は遅くまで手紙を書き続けた。 学校に提出する辞表と、断腸の思いで辞職する理由をくわしく書いていると涙が止まらなくなって、紙面が汚れないよう手ぬぐいを横に置いて書いた。
 四日後に返信が届いた。 辞表を受け付けた返事だけなら薄いはずだが、ちょっとした本ぐらいに分厚い封筒で、中には親しくしていた先生方が別れを惜しむ寄せ書きが入っていた。
 志津は号泣しながら読んだ。 その中に、参考になりそうな文章があった。
『わが故郷は山がちで貧しく、粟〔あわ〕を飯として食しておりますが、村に脚気は一人もおりません。 大麦とまぜて炊くと味もまあまあです。 一度おためしになったらいかがでしょう』


 志津はまず、床を敷いて母にしばらく寝てもらった。 安静にしていれば具合がよくなると聞いたからだ。
 確かにそのとおりで、十日ほどすると母の顔色はぐっとよくなった。 毎日魚や肉を使って、お蓉があれこれと工夫をこらして料理を作ってくれるおかげもあった。
 父も、仕事や打ち合わせはできるだけ昼のうちにすませて、夕食は家族と取るように心がけた。 こんなにおいしいものばかり食べていては太ってしまうわ、と言いながらも、母は三人そろって賑やかな食卓が嬉しくて笑顔が増え、薄紙をはぐように少しずつ元気を取り戻していった。


 一ヶ月ほどが過ぎ、咲が久しぶりに琴の師範を呼んで練習した日の午後、志津が買い物に行くと親戚の村長の峰山作治と出会って声をかけられた。
「おう、お志津ちゃん、またまた綺麗になったなあ」
「え?」
 本気で驚いて、志津は叔父をまじまじと見返した。
「作治叔父さま、ますますお世辞がお上手になって」
「何を言うんだ。 本当のことだよ」
  四月のぽかぽか陽気の中、活動的な叔父はもううっすらと汗をかいていた。
「ここで逢えてちょうどよかった。 お咲さんのために家へ戻ったんだって?」
「はい」
「おかげでお咲さん、ずいぶん具合がよさそうじゃないか。 さっき門の傍で立ち話していたよ。 あの様子なら、おまえさんが少し留守にしたって大事はあるまい。 お志津ちゃんを見込んで、ぜひ頼みたいことがあるんだがね」








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