表紙

 お志津 117 母の寂しさ



 夕焼けの下で家に着くと、直造と勝次が薪小屋から飛び出してきて大歓迎してくれた。
「お帰りなさいまし!」
「志津お嬢様が戻られると、あたりがパッと明るくなりますなぁ」
 志津も心からの笑顔になって二人に駆け寄った。
「ただいま! はい、榎木屋の名物の酒まんじゅう。 酒かすがたっぷり入っているから、おいしいわよ」
「そりゃそりゃ、けっこうなものを」
 酒も甘いものも大好きな男二人は、ほくほくして大きな包みを押しいただき、志津の荷物を庭から運んでいった。 裏口からお蓉とお若もにこにこしながら姿を見せ、志津の帰りを喜んだ。
 父は直造たちの後をついて庭に回った。 志津は女中二人にも街で流行の菓子を持って帰っていて、それぞれに箱を渡した。
「お蓉さんには風月堂の羊羹〔ようかん〕、そしてお若ちゃんには、一度食べてみたいと言っていたビスケット」
「まあありがとうございます。 お高いんでしょう?」
 二人とも望みのものを貰えてうれしいやら恐縮するやらで、大事そうに抱え込んだ。
 彼女らにちやほやされながら玄関に上がった志津は、茶の間からだるそうに姿を見せた母を見て、息を呑んだ。 顔が青白く、なんと背中が曲がっているではないか!
「お母様!」
 驚きを見せてはいけないと思いながらも、志津は履物を蹴散らすようにして廊下に上がり、母の手を取った。 そして指先が冷たいので不安にかられた。
「風邪を引かれたの? 顔色が悪いし、目がはれぼったい」
「そう?」
 母はだるそうに顔に手を当てた。
「近頃太ってきたような気がするのよ。 あまり食べていないんだけどね」
 もしかして、むくんでいるんじゃないだろうか。 志津はあることに思い当たり、ぞっと寒気を覚えた。
「お母様、ちょっとこっちへお座りになって」
「え? どうして?」
 急に教師らしい口調になった娘に、母は驚き、少し面白がって笑いながら茶の間に戻った。


 座布団にきちんと正座した母に、膝を崩してほしいと志津は頼んだ。
「また妙なことを」
「いいえ、大事なことなの」
「そう? まあ、あなたがそう言うなら」
 咲はまだ笑顔で、横座りになった。 志津は母の着物の裾を少しまくって、ふくらはぎを指で押してみた。 すると、白い皮膚は弾力をみせず、凹んだままになった。
 志津は震える息をついた。 大変だ。 お母様は脚気〔かっけ〕にかかってしまった。
 脚気は百年ほど前から目立つようになった病で、元気がなくなって脚や手がむくみ、ひどくなると心臓をやられて命を落とす。 兵隊さんも脚気でたくさん病死していた。
 目まいがするぐらい不安な中で、志津は一つの光明にしがみついた。 学校で算術の先生が話していたことだ。 その今田先生の弟は海軍にいて、陸軍は白米を食べるから病気になる、海軍ではパンと麦飯だから、ただの一人も脚気患者が出ていない、と手紙で自慢してきたそうだ。
「これは……きっと栄養不足だわ」
「え?」
 母はけげんそうに首をかしげた。
「ごはんはちゃんと食べているわよ。 ただ、あなたは寮だしお父様はお忙しくてしょっちゅう出ていらっしゃるから、倹約しておかずは少なくしているけど」
「やっぱり!」
 志津はけなげな母心に涙が出そうになった。 確かに甲斐介の作った借金のせいで、使える家計費は以前の半分くらいになった。 しかし決して貧しいわけではないのに、母は自分の身を犠牲にして節約に努めていたのだ。
「いい食べ物はぜいたくではないわ、お母様。 うちの学校でも、育ち盛りの女子を預かるのだから栄養をきちんと取って、健康に暮らしてもらおうということで、肉や魚を多く出しているの。 異人さんたちが体が大きくてがっちりしているのは、肉を食べているせいでしょう? お母様だってすき焼きがお好きじゃない?」
「それは確かに好きなほうだけれど、あれは一人で食べるものじゃないわ。 それこそぜいたくの極みじゃないの」
 そのとき、志津はようやく悟った。 母がどんなに孤独だったかを。 兄を失い、父は仕事で忙しく、志津までが働きに出てしまって、使用人がいるとはいえ、咲は広い家でぽつんと一人ぼっちだったのだ。







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