表紙

 お志津 116 戦争の疲れ



 春になっても、戦争はまだ続いていた。 陸では二月後半から決戦が行なわれていた奉天が三月になって遂に日本の手に落ち、有利な展開になってきた。 しかし敵には世界を震え上がらせる切り札があった。 バルト海を守る大艦隊である。
 その戦艦群が新しく二つの艦隊を結成して、昨年の十月に日本海を目指して出航していた。 旅順とウラジオストックの両艦隊を八月に日本につぶされ、制海権を取られた後だけに、露西亜もこのバルチック艦隊が海での最後の頼みの綱だった。


 三月の半ば、もうじき学校の春休みというときに、バルチック艦隊はようやくアフリカの東、マダガスカルの港を出た。  あちこち顔を出す日本の水雷艇に悩まされていた露西亜軍は、北海を通っていたときに日本の船とまちがえてイギリスの漁船を攻撃し、漁民を殺してしまうという大失敗をしていた。 イギリス国民はかんかんに怒り、一気に日本びいきになってしまって、たくさんあるイギリス植民地の港から艦隊を締め出した。 わざわざ海軍がバルチック艦隊の後を尾けて嫌がらせまでしたという。 そのせいで露西亜海軍は水や食料、燃料の補給がうまくできず、速度が遅くなった上に飢えや渇きに苦しむことになった。
 友好国が少なく、疲れた露西亜海軍が太平洋をのろのろ進んでいたころ、志津はずいぶん元気を取り戻して、家に帰った。
 少なくとも、見た目は以前の明るい志津に近くなっていた。 心の奥にはまだ冷たいしこりがあって、永久に温まらないような気がしていたが。
 戦争が二年目に入って、志津の周りにいる生徒や教師にも、家族に戦死者が増えてきた。 その辛さはお互い同士にしかわからない。 志津は彼女たちと慰めあい、愛しい人の思い出を口に出して語り合うことで、悲しみを少しずつ封じこめていった。
 だから、相変わらず元気で精力的に連載小説を書いている父が、いつものように迎えに来てくれたとき、笑顔で飛びつくことができた。
「どんどん話が面白くなりますね、父上。 新聞を切り抜いて溜めているんですよ」
「何が父上だ」
 義春はにやりと笑って、歩きながら娘の頭をポンと叩いた。
「ともかく売れているのはありがたい。 ほとぼりが冷めないうちに、完結したらすぐ本にして出す予定だそうだ」
「あら、じゃそちらを買えば、わざわざ切り抜かなくてもいいんだ」
「そのとおり。 売り上げに力を貸してくれよ」
 その日は晴れて暖かく、道端にはたんぽぽやつくしが頭をもたげて、早くも小さな蝶が蜜を吸いに飛び回っていた。
 娘の歩幅に合わせてゆっくり歩きながら、義春はまじめになって言葉を継いだ。
「ただなあ、お母さんが最近、妙にさびしがるようになってな」
 志津の笑顔が引っ込んだ。 母のことは彼女も気にかかっていた。 このところ、母からの手紙が急に増えた上、字が頼りなく細くなっている。 どの文面にもグチが多く、家計の心配で夜よく眠れないとか、私たちが早死にしたら志津は一人ぼっちでどうなるのだろうとか、不安ばかりがつのっている様子がうかがえた。







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