表紙

 お志津 113 新たな悩み



 志津はあっけに取られて、二の句が継げなくなった。
 災いは横浜から来るはずだと思い込んでいたため、同じ村のできごととわかったとたん、ぽかんとしてしまった。
 そのとき、母の咲が動いた。 乱暴に袖を顔から振り払うと、やけ気味の口調で小さく叫んだ。
「郡の借金は、ほとんどこの家にかかってくるのよ。 本当に性質〔たち〕の悪い人たちだ。 親戚を請人証人(=連帯保証人)にして、自分達は借りられるだけ借りて逃げてしまったの」
 あの人のいい甲斐介おじさんが……。 不意に志津は呼吸が苦しくなった。 道でたまたま出会って、敦盛と志津の婚約話を知ったとき、甲斐介の妻の珠江が見せた悔しげな表情が、大きく脳裏によみがえった。
「もしかして」
 考える前に、声が出た。
「私が敦盛さんに嫁ぐとわかって、かっとなったのかもしれません」
「まさか」
 咲は反射的に否定したが、義春は腕を組んだまま、しばらく口を開かなかった。 そのうち次第に額に雲がかかり、やがて吐き捨てるように呟いた。
「妬〔ねた〕みか。 あの夫婦も堕ちたものだ。 哀れなのは生まれ故郷から引き離されて、浮き草のように流されていく松治郎だな」
 松ちゃん!──志津は目頭が熱くなった。 兄を尊敬し、志津によくなついていた素直な子は、これからどんな運命をたどるのだろう。 もう後を継ぐ土地も財産もなくなった。 戸籍から離れ、正式な学校へも行けない。 おっとりと育った甲斐介に新しい事業が起こせるとは思えず、持ち逃げした金がなくなれば先の暮らしにも困るはずだ。
 志津の思いを読んだように、咲がぽつりと言った。
「着飾って習い事をするのが好きな珠江さんに、逃げ回る暮らしができるかしら。 いったい何を血迷ったのだろう」
「お父様、どうして郡の一家がいなくなっているのがわかったのですか?」
 志津が尋ねると、義春は額に皺を寄せて答えた。
「敦盛くんのことで、甲斐介の家を訪ねたんだ。 寛太郎の親友だから、彼の家庭の事情を親も聞いているんじゃないかと思ってね。 そうしたら昼だというのに雨戸が閉まったままで、借金取りが玄関先で騒いでいた」
「恥さらしなことを!」
 咲は鋭く吐き捨て、目尻を拭った。
「向こうが逃げて、らちがあかないということになれば、きっとこっちに押しかけてきますよ」
「しかたない。 請け人になっている以上、残された郡の土地建物を処分して、借財を返す義務があるんだ」
「よりにもよってこんなご時勢で、田畑が売れますかねえ。 戦争成金は田舎の土地なんか見向きもしないでしょうに」
「露西亜に勝てば賠償金が取れる。 日清戦争の後のように、また景気がよくなるさ」
「ええ」
 咲はかぼそく息をつき、志津と目を合わせて囁くように言った。
「一日も早く勝ってほしいですね。 みんな大変な犠牲を払っているんだから」
 







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