表紙

 お志津 112 裏切る者達



 夕方になって、事態はさらに激変した。
 泣き疲れて頭が痛くなってきた志津が、冷たい水で顔を洗おうと部屋を出ると、廊下の端でお蓉とお若が手を取り合ってひそひそ話をしているのに出くわした。 二人は人の気配で振り向き、すっかりやつれた志津を見てあわてて走り寄ってきた。
「もう起きて大丈夫ですか? おも湯かお粥でも作ってきましょうか?」
「いいえ、いいの。 ありがとう。 ちょっと顔を冷やそうかと思っただけなの」
「それなら水を汲んできます」
 お若が裏手へ急いで行く間に、お蓉は志津の肩を抱くようにして部屋に連れ戻した。
「もう少しお休みなさいまし。 お気を楽にして」
 その言い方がどこか引っかかった。 お蓉の視線が自分を避けているように感じる。 さっき二人で深刻な顔をして話し合っていた様子が、ただごとではなかった。
「何かあったの? まさか、負け戦とか」
「ちがいます」
 お蓉は慌てて大きく手を振って打ち消した。
「兵隊さんたちは勇ましく戦っておられますよ。 今こっ……黒溝台〔こっこうだい〕とかいう難しい地名のところで露西亜の馬に乗った兵どもと決戦しているとか。 きっと勝ちます。 必ず打ち負かしますって」
 それは稀代の名将秋山好古〔あきやま よしふる〕がわずか八千人の部隊を率いて、突然襲ってきた露西亜の本隊十万人と死闘を繰り広げている最中のことだった。
 いつもなら志津も新聞をなめるように読み、戦況をよく知っているのだが、その日はそれどころではなく、号外を読んだお蓉に説明されてもぴんと来なかった。
「そう……。 では、なぜそんなにうろたえているの?」
 お蓉は一瞬息を呑んだ。 それから顔を隠すようにして、小声で答えた。
「はい、あの、志津お嬢様が心配するようなことではありません。 どうぞゆっくりお休みになって、一日も早くいつもの元気なお姿になるのが、一番の親孝行ですよ」
 やはり何かが起きたんだ。
 悲しみにしびれた志津の脳が、不意にぴしりと目覚めた。 本能が危険を察知した。
 そっとお蓉を押しやると、志津はしっかりした足取りになって廊下を進み、まっしぐらに父の部屋へ向かった。


「お父様」
 襖越しに志津がかけた声に、しばらく返事は戻ってこなかった。 だが志津は辛抱強く廊下に膝を折って待ち続け、一分ほど経ってからもう一度呼びかけた。
「お父様、志津です。 何か困ったことが起きたのなら、どうか教えてください」
 低い咳払いが響き、ようやく父が言った。
「入っておいで」
「はい」
 襖を開けると、中には父だけでなく母もいた。 志津から顔を背〔そむ〕けるようにして、袂〔たもと〕で目を押さえている。 母は昔から気丈な性質だから、こんな悲しげな様子を見せるのはよほどのことだった。
 志津が畳にきちんと座ると、義春は短く息を吸ってから、淡々と口にした。
「郡〔こおり〕の甲斐介が夜逃げした。 新たな借金で首が回らなくなったらしい」








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