表紙

 お志津 110 間違いなく



「信じられません」
 無意識のうちに自分がそう答えている声が、志津の耳に響いた。 細く頼りない声だったが、確かにそう言っていた。
 すると梨加は唇を震わせ、近くの部屋の扉を開けて中に呼ばわった。
「多村〔たむら〕さん、来て!」
 嫌も応もない命令口調だった。
 すぐに戸口から若い男が現れた。 ひょろりとした中背で、青ざめた顔をしている。 玄関に立ったままの志津を目にすると、あわてたように頭を下げた。 志津も反射的にお辞儀した。
「この人が峰山志津さん。 あなたが電話を受けた相手よ。 私の言葉では信用できないんですって。 だからあなたから言ってあげて。 敦盛さんは旅順の土となってしまったと」
 多村はごくりと喉を動かし、囁くように告げた。
「はい、そういう知らせが参りまして」
 志津は眼を閉じた。 どうしても開けていられなかった。 耳鳴りが頭の中から広がり、少しの間何も聞こえなくなった。
 気づくと多村が上履きのまま土間に降りてきて、志津の肘を支えていた。
「ご心労でしょう。 どうかこちらへお座りになって……」
「いえ、帰っていただいて」
 氷のような梨加の声が遮った。
「もう二度とこの家には来ないでください。 おじさまは跡継ぎを失くし、おばさまは誰よりも老後の頼りにしていた長男を失ったんです。 正式な結納の前でまだよかった。 不幸の元にはすぐ帰っていただきたいわ」
 もうろうとしながらも、志津は一言だけ搾り出した。
「綾野さんに会わせてください」
 梨加は前に詰め寄った。 眉が吊り上がり、美しい顔が一瞬、鬼の仮面のようにみえた。
「とんでもない! 一番傷つきやすい乙女ですよ。 これ以上苦しめてどうしますか! 私がおばさまからあなたの応対を任されているんです。 さあ、早くお帰りください!」
「僕がお送りしてきます」
 多村が低く申し出ると、梨加がそれ以上口を挟む前に、玄関扉をすり抜けるようにして志津を導いた。


 志津は悪夢の中をさまようように、足元が定まらないまま道を進んだ。 すぐ横に多村が付き添って、よろめいたらすぐ手を貸せるようにゆっくり歩いてくれていたが、ほとんど意識しなかった。
 どれほどの距離があったのだろう。 やがて二人は市内電車の駅に着いた。 多村はそこで志津と別れるのではなく、わざわざ鉄道駅までついてきて、汽車の切符まで買ってくれた。 そして、まるで言い訳のように話しかけた。
「谷之崎のお嬢さんはきつい言い方をなさいましたが、かっとなりやすいだけで悪気はないのです。 本当にお気の毒でした」
 答えを返そうにも、口を開く気力がなかった。 志津がうるんだ瞳で見返すと、多村は激しく瞬きして目をそらし、ぼそぼそと繰り返した。
「お気持ちお察しします。 本当にお気の毒で」








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