表紙

 お志津 109 信じられず



 志津は必死の形相で教務室へ行き、午後から臨時休暇を取る手続きを踏んだ。 許婚が戦闘中に行方不明と聞いて、係の先生は深く同情してくれ、許可はすぐ貰えた。
 その日も初めて敦盛の実家を訪ねたときと同じように、空は晴れわたっていた。 こうやって横須賀線に乗っていると、横にいた敦盛の温かい体が思い出される。 一度など、なつかしい声が聞こえたような気がして、反射的に腰を浮かせて探したりした。
 神奈川駅で降りると、すぐ人力車を雇った。 すでに新しい市内電車が走っていたが、乗ったことがないのでどの駅で降りればいいかわからない。 それより小回りのきく人力車で鈴鹿邸の前まで行ってもらうほうが合理的だった。
 少し遠いし急ぎだと聞いて、車夫が二人つき、一人が後ろから押す形になった。 料金も二倍だが、志津は二つ返事で払った。 そして、思ったより早く到着したため心づけまで渡したので、二人は喜んで丘の上まで運んでくれた。


 玄関前の花壇は、前に来たときと同じに冬枯れしていた。 他の季節に訪れたことがない。 寒々しい風景の中、志津はそっと玄関の扉を開き、声をかけた。
「ご無礼いたします。 志津です」
 すぐ廊下の奥から足音が近づいてきたので顔を向けると、現れたのは事務員の男性でも綾野でもなく、意外な人物だった。 従姉妹だという谷之崎梨加〔やのざき りか〕だったのだ。
 正月に会ったときとは打って変わり、梨加は地味な服装をしていた。 若いのに藍色の合わせの着物をまとい、上には黒の羽織を着ている。 もともと白い顔が奇妙なほど青ざめていた。
 志津の顔を見たとたん、梨加の表情が強ばった。 腫れぼったくなった目が鋭い光を発して、志津を睨みつけた。
「みんなあなたのせいですよ」
 挨拶なしに、いきなり切り裂くような声が志津にあびせられた。
 志津は目を見張った。 驚きで返す言葉もなく見返すと、梨加は容赦なく畳みかけた。
「あなたが婚礼をせっつくから、敦盛さんは早く兵役をすませなければと焦ったんです。 徴兵の知らせが来てから入隊しても十分だったのに。 上級学校卒はいろいろと免除されるんですよ」
「いいえ、私は」
 事実を話そうとして声が喉に詰まった。 決めたのは敦盛自身だが、やはり引き止めるべきだったのかもしれない。 私だって早く一緒になりたかった。 だからつい…… 「今更何をしに来たんです? 伯母様や綾野ちゃんをもっと苦しめに?」
「とんでもない! 行方不明と聞いて、お慰めに」
「行方不明?」
 梨加の声が低くなり、一挙に凄みを増した。
「いいえ、もう違うわ。 さっき伯父様が東京から戻っていらしてわかったのよ。 敦盛さんは……敦盛さんは、戦死したんです!」
 志津は瞬きを忘れた。 ごうごうと耳鳴りがして、目の前が赤くなった。
 だが気を失おうとする瞬間、頭の中で声がした。 ひどくはっきりした太い声が、志津の意識に食い入った。
 そんな訳はない。 あの人が死んだら、絶対にわかったはずだ。 虫の知らせがあったはず。 でも私にはまったく不吉な予感はなかった!







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