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 お志津 106 港での別れ



 横須賀港へ行くには、近年開通した横須賀線に乗るのが早道だった。 出発駅は鎌倉にある大船〔おおふな〕だ。 義春と志津は早朝に起きて、七時きっかりの始発の東海道線で大船駅まで行き、乗り換えて横須賀へ向かった。 十月七日のことだった。
 隊の出発は午後二時の予定だという。 早く行けば町の旅館か食堂などで差し向かいで話が出来るかもしれない。 汽車の中で志津は緊張と期待のあまり、ずっと手を握りしめていて、掌に爪の痕が残るほどだった。
 

 横須賀鎮台府の正門には両端に門衛の詰め所があり、右側の筒型の建物の前に粋な水兵帽を被った若い兵士が、小銃を立てて見張り番をしていた。 父の義春が挨拶をして、第一師団の補充兵がどこに集められているか尋ねると、門衛の兵はきびきびと答えてくれた。 彼によると、なんと出発が輸送船の都合で早まり、すでに港に集合しているとのことだった。
 二人は夢中で、教えられた桟橋へ急いだ。 軍港は短期間に驚くほど見事に整備されていた。 真平らに舗装された地面には物資を運ぶための線路が何列も走っていて、すぐ近くに迫る海には巨大な蒸気戦艦が停泊し、巨大な影を投げかけている。 その向こうに、五列縦隊で整列している兵士たちの一団が見えた。
 小走りしながら、志津は必死で若者たちの列を見回した。 そして最後尾に、ひときわ大きい姿を見つけた。 五尺(約一五○センチ)から五尺三寸(約一六○センチ)ぐらいの兵士が多い中で、六尺四寸(一九二センチ)だと頭一つ分以上高い。 こんなに目立ったら敵兵に狙い撃ちされるんじゃないかと、志津は心臓が縮む思いを味わった。
 その目の前で指揮官らしい士官の訓辞が終わり、下士官が号令をかけた。 背嚢〔はいのう〕を背負い小銃を持った兵たちは一斉に動き出して、船のタラップへ向かった。
 行ってしまう。 追いつけないうちに、敦盛さんは乗船してしまう!
 志津は口に両手を当て、悲鳴に近い声で叫んだ。
「敦盛さ〜ん!」
 息がひどく切れていた。 それに逆風が激しく、声は容赦なく吹き飛ばされて、しゃぼん玉のようにつぶれてしまった。
 だが港の雑踏と強風の中でも、何かが敦盛の意識に届いた。 段を踏みしめて上っていた彼の足が一瞬止まり、頭が振り向いて、まっすぐ志津の姿を捉えた。
 まだ二人の距離は二十間ほど開いていた。 しかし志津はその瞬間、敦盛の顔が光り輝くのを見た。 まさか志津が出発に間に合うとは思っていなかったにちがいない。 志津はまだ走りながら、精一杯両腕を頭上に上げて、大きく振った。 それに応えて、敦盛は笑顔になった。 まるで少年のような、無邪気で底抜けの笑顔に。
 そこで後ろから下士官にせかされて、敦盛は前を向き、表情が見えなくなった。 でも船上の人となった後、兵士たちは甲板へ鈴なりになって、後にする故国を名残惜しそうに見つめ始め、その中にはもちろん一際長身の敦盛の姿もあった。
 見送りに間に合った家族や友人たちが少しいて、小さな塊を作っていた。 志津と義春もその横に並んで、懸命に呼びかけた。
「どうか元気で。 手紙をくださいね」
 敦盛も叫び返してきた。 耳に手を当てて聞き取ろうとしたがうまくいかない。 でも逢えただけで嬉しかった。 周囲はハンカチや手ぬぐいを振って別れを惜しんでいた。 志津はもう手も振らなかった。 これは別れじゃない。 彼は必ず帰ってくるんだから。 そう固く自分に言い聞かせ、大きな微笑みで敦盛を見送った。
 







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