表紙

 お志津 103 触れ合えど



 降りしきる雨の中、志津はただひたすら敦盛にしがみついていた。 絶対に彼を失いたくなかった。 こんなに好きなんだと自分が怖いほどだった。
 片手で傘を握った姿勢で、敦盛は志津を抱き寄せ、全身で庇うように背中を曲げた。 その胸で、志津は切れ切れに囁いた。
「寛太郎ちゃんと一緒にならなくてよかった…… 友達付き合いしていれば、必ずいつかわかったはず…… あなたのほうが何倍も、何百倍も大事だと……」
 志津の傘はいつの間にか足元に落ちていたが、二人とも気づかなかった。 志津の長い黒髪は雨に濡れ、敦盛の大きな手の下で生き物のようにうねった。
 わななきながら頭を上げた志津は、敦盛の顔がすぐ近くにあるのを知った。 彼の眼はせつなく、同時に世の中を動かす巨大な力に対するやりきれない怒りに光っていた。
 彼の顔がさらに下りてくる。 志津は自然に目をつぶった。 そして温かい唇がそっと口の端に触れるのを感じた。
 顔はすぐ離れた。 志津は大きく目を見開き、恋人を見返した。 わずかな間見つめあった後、二人は同時に動いて、夢中で唇を重ねあった。
 志津の下で大地が揺れ動いた。 傘が壁となって人目をさえぎる中、二人は店の軒先ではじめての接吻に酔いしれた。


 やがてしぶしぶ乗った市電の中でも、まだ志津はくらくらするほどのぼせていた。 並んで座った敦盛とはほとんど言葉を交わさないまま、肩掛けの裾に隠してずっと手を握り合っていた。 彼がどうしても結婚を急がないので、志津はむしゃくしゃしていたが、話し合いが物別れになっても愛しさは別だった。
 雨雲はどんどん増えて、空は灰色を通り越して黒くなっていた。 勤め先の女学校近くで市電を降りると、辺りは夕闇のように暗く、足元がよく見えないほどだった。
「出発の日取りを教えてね」
 ぎこちなく志津が念を押すと、敦盛は淡く微笑んでうなずき、手を伸ばして志津の顔から後れ毛を優しく払った。
「訓練中に日本が露西亜をやっつけることを願うよ」
「きっとそうなるわ。 提灯行列の支度をしておかなくちゃ」
「それでもすぐには除隊できないかもしれない。 軍役は一年間と決まっているから」
「平和なときならそのぐらい待てる。 本当は待ちたくないけれど」
「僕もだ」
「訓練があまり厳しくないといいわね」
 敦盛は考え込んだ。
「いや、厳しいだろう。 ただ、たぶん甲種合格じゃないから、そんなに期待されなくて逆にいいかもしれない」
 そびえるほど立派な体格の敦盛を、志津は思わず見回してしまった。
「甲種にならないの? 敦盛さんがだめなら誰が?」
 敦盛は大きな笑顔になり、暗がりでも白い健康そうな歯が見えた。
「でかすぎるんだ。 合う軍服が少ないから、軍隊としては迷惑なんだよ」
 確かに六尺三寸(約一九○センチ)もあれば、普通の軍服の倍ぐらい生地が要るかもしれない。 でも体が大きすぎて甲種から乙種に落とされるなんて、と、志津は内心不満だった。







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