表紙

 お志津 101 少しは安心



 志津はあせりはじめた。 いつも楽天的なのに、今は妙な不安にとりつかれていた。 いくら不吉な考えを振りはらおうとしても、かまどの汚れのようにこびりついて胸から離れない。 普通の手紙で返事をして間に合わなかったら、いや万が一途中でどこかへまぎれて届かなかったら、と思うと、いてもたってもいられず、ついに逢う日付と場所だけを記して電報を打ってしまった。


 敦盛からの返信は期待しなかった。 なにしろ手紙をもらった二日後に逢おうと答えたのだ。 電報だからできることだった。
 待ち合わせたのは銀座の有名な時計台の前だった。 しとしと春雨が朝から降っていたので、傘でさりげなく顔が隠せるのがいい具合だ。 志津は敦盛が来てくれるのをみじんも疑っていなかったし、思ったとおり彼は時間より前に来て、大きな時計の下にじっとたたずんでいた。
 ひときわ大きな姿を見つけたとたん、志津は外聞を忘れて手を振り、小走りになった。 敦盛もすぐ志津に気づき、大股で近づいてくると、しっかり手を握りしめた。
「早く出てこられたね。 今日は土曜日なのに」
「だいじょうぶ。 半ドン(ドンタークはオランダ語で日曜日のこと。 半日休みの意味)だから、仕事を大急ぎで片付けて飛び出してきたの」
 待ち合わせ時刻は一時半だったが、二人とも早出したため時計の針はまだ一二時五分前を差していた。
 昼ご飯を食べるにはちょうどいい。 二人は横丁に入り、さくら寿司という看板に目を引かれて暖簾〔のれん〕をくぐった。
 桶にきちんと並んだ握りと稲荷を目にしたとき、志津は我もなく涙がにじんでくるのを悟ってあわてた。 こうやって二人なかよく食事ができるのも、これが最後かもしれないとふと考えてしまって、そんな自分をきびしく叱った。
 敦盛のほうは落ち着いていた。 そして、ぱくぱく食べながらこれからの予定を話した。
「昨日志願して、すぐ受け付けてもらえた。 歓迎されたから、やはり待遇はよくなりそうだ。 入隊は四日後に決まったよ」
「出発は神奈川の駅から?」
「うん、そうだ」
 たまらなくなって大粒の涙を浮かべた志津を見て、敦盛は普段と変わらない笑顔になった。
「もう心配してるのかい? 僕にとってはうれしいが、最初から戦場に行かされるわけじゃないんだよ。 銃の構え方も知らないんじゃ、まったくの足手まといだからね。
 聞くところによると、最初に訓練があるんだ。 一年志願兵だと幹部候補生として何ヶ月か鍛えられて、まず二等軍曹になり、それから将校試験を受けるらしい。 今はまさに戦時だから期間は短くなるだろうけど、必ずある。 すぐにどうこうということはないんだよ」
 志津は少しほっとした。 鈴鹿家の狙いがようやくわかった。 現在、戦争はたけなわだ。 もし敦盛の訓練期間中に終戦ということになれば、お国への義務が果たせる上に危険もない。 先の見通しがよさそうな敦盛の父親なら、きっとそこまで考えたはずだ。
 最後の巻き寿司をあっという間に飲みこんだ敦盛は、志津が残したままでいる稲荷寿司をじっと見つめた。
「もう食べないの?」
「え?」
 顔を上げた志津は、物欲しげな敦盛の眼差しを見て、今日初めて大きな笑顔になった。
「ええ。 さあどうぞ」
「悪いね」
 たちまち敦盛は、二つあったお稲荷さんをぺろっと食べてしまった。







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