表紙

 お志津 99 楽しい午後



 まもなく正月の休みは終わり、志津と敦盛はそれぞれの学校へ戻った。 志津は教壇に、そして敦盛は教室に。
 だから二人は去年の末と同じく、お互いの寮に手紙を出し合うことになった。 恋文の書き方は今でもよくわからない志津だったが、身の回りに起こったことを楽しく書けば、彼は喜んでくれた。
 志津にとって、敦盛の手紙はいつも嬉しかった。 学生仲間の思わず笑ってしまういたずらを語るかと思えば、まじめに将来の計画を相談してくる文面もある。 だがその中に、一つ気になる情報が書かれていた。
『……英国との貿易は順調です。 ただ、露西亜〔ろしあ〕が露骨に朝鮮半島や満州へ手を伸ばしてくるので、これから大事にならないかと心配です。 もしも外相同士の交渉が決裂して戦端が開かれれば、我々も戦場へ行かなければならないでしょう』
 その文を目にしたとたん、志津の背中に戦慄が走った。 日清戦争は一昔前のことだが、それでも子供心に感じた恐ろしさは忘れられない。 約半年の間、日本全土が緊張した空気に包まれていた。
 そんな恐怖の戦場へ愛しい人が連れていかれたら……! 考えただけでたまらない。 志津は眼を閉じて八百万の神に祈った。 露西亜との外交交渉がうまくいきますようにと。 もう二年越しに交渉は続いているが、長引いているのは希望があるからだと信じたかった。


 しかし、その願いは叶わなかった。 二月に入ってとうとう外交交渉は決裂。 八日に日本の海軍が旅順港にいた露西亜の艦船を攻撃して戦争が始まった。
 日清戦争の勝利が自信になったとはいえ、露西亜はヨーロッパが一目置くほどの強国だ。 そんな大国相手に向かっていって、はたして勝てるのか。 心配で、志津は生まれて初めてなかなか眠りにつけない夜を過ごした。


 世の中は、志津の密かな思いとは逆の方向に動いていた。 新聞などのあおりもあり、開戦で多くの国民は熱狂した。   四月になると陸軍も参戦し、戦闘範囲が広がっていった。 中等学校以上の学生には徴兵免除があるが、敦盛は六月には卒業する。 早く勝ち進んでほしいと、志津の祈りは形を変えた。
 短い春休みの前、敦盛と志津は一回しか会えなかった。 その貴重な日は二月末の日曜日で、冬には珍しいほど暖かくなった。 いくら婚約者でも女学校に男性が迎えにくるのは目立つ。 二人は市電の駅で待ち合わせし、そこで乗って銀座に直行した。
 休日で晴れていたため、銀座通りにはたくさんの人がそぞろ歩いていた。 最新の商店街といっても、まだほとんどは二階建てだが、道は広々として、きちんと車道と歩道に分かれ、市電と人力車が忙しく行き交っていた。
 敦盛は志津を、写真が動くと評判の見世物へ連れて行った。 ほんの短い時間、何人かの芸者衆が踊るというだけのものだったが、ものめずらしくて面白かった。
 上映の間は照明を落とすので、二人はずっと手を握り合っていた。 周りでも、もたれあったり肩を組んだりしている男女がいる。 中には男同士で肩を組み、ほとんど抱き合っている連中さえいた。 男同士の恋愛が硬派と言われているのを、志津はそのとき敦盛から聞いて初めて知った。
 その後、有名な木村屋に寄って、天皇・皇后両陛下がお好きだというアンパンを買った。 戦争の話はほとんどしなかった。 未来に暗い影を落とす暗雲は、楽しい午後からできるだけ遠ざけておきたい。 これからも幸せな日はずっと続く──志津は、そして敦盛も、そう信じたかった。







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