表紙

 お志津 97 元気な少年



 三人が下りていくと、下の階では両親たちと谷之崎梨加が二間続きの座敷に移って、百人一首のかるた取りに興じていた。
 志津は後少しで終る一回戦を見物した。 声のいい敦盛の父親が読み手となり、徳子と咲と梨加の女性陣が競っている。 志津の父の義春は、参加せずに座椅子でくつろいで、公平に応援を送っていた。
 梨加は模範的に振舞っていた。 自分の札をしっかり守り、大人から無理に取ろうとはしないで、華やかな徳子と真面目な咲が節度を守って楽しんでいるのを一歩下がって眺めている感じだった。
 同年代の志津や後輩の綾野に見せた態度とは大違いだ。 猫をかぶるとはこういうことなんだな、と志津は思い、内心で苦笑した。 学校で教えていた生徒にも確かにごますりはいたが、ここまで見事に演技する子は初めて見た。


 やがて勝負は咲が二枚の差で勝ちを収めた。
「奥様が譲ってくださったんですわ」
「いえそんな。 譲ったとしたら梨加さんでしょう」
と、徳子がにこやかに答えた。
「普段はとてもお上手なんですよ」
 そのとき、不意に襖が開いて、少年の高い声がした。
「上手なんじゃないよ、怖いんだ。 去年綾姉ちゃんとやったとき、手に爪立てて血が出たんだよ」
 部屋の全員が振り返った。 具合の悪い沈黙が支配する中、梨加は一人おちついて、入ってきた少年を困った表情で見つめ返した。
「よほどびっくりしたのね、悪かったわ。 あのときは膝がすべって前のめりになってしまったの。 でも行長〔ゆきなが〕くんは男の子なんだから、血ぐらいでおびえてはいけないわ」
 少年はカッとして、みるみる赤くなった。
「おびえてなんかいねーよ。 なんでぇ、なまっちろい白狐のくせして偉そうに!」
「行長!」
 父親の誠吾が片膝を立てて、割れるような大声で怒鳴った。
「なんという失礼なことを! 梨加ちゃんはわざわざ新年の挨拶に出向いてきてくれたんだぞ。 無礼な言葉を謝りなさい!」
 だが行長は両足を踏ん張って立ち、思い切り梨加にあかんべーをした。 そして、父親が席を蹴立てて迫ってくる前に、猿のようにすばやく部屋を突っ切り、窓を開けて庭に飛び降りて姿を消した。


 その間、志津は必死で無表情を保っていた。 この家の末息子行長は、なかなか男気のある下町っ子らしい。 捨て台詞に残した啖呵〔たんか〕はなかなか見事だった。
 徳子がさすがに恐縮した口調で、誰にともなく詫びた。
「とんでもない腕白に育ってしまって。 本当に申し訳ありません」
 義春が身を起こし、明るい声音で座を収めた。
「いやー、あの年頃は照れるものなんですよ。 美人を前にすると、つい心にもない悪態をついたりして。 なあ敦盛くん、君にも覚えはないかい?」
 敦盛は謎めいた微笑を浮かべ、義春と目を合わせたまま、静かに答えた。
「さあ、どうでしょうか。 知り合いがそんな態度を取るのを見たことはありますが」








表紙 目次 文頭 前頁 次頁
背景:kigen
Copyright © jiris.All Rights Reserved
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送