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 お志津 94 庭の奥には



 志津は立ち上がりながら、許婚の視線を探した。 敦盛は両手を膝に置いて憮然とした顔をしていたが、それでも志津と目が合うと小さく微笑んで、口を「すまん」という形に動かした。
 元気一杯の綾野がすでに好きになっていたので、志津は引っ張っていかれても悪い気持ちはしなかった。 むしろ自分が同じ年齢だった頃をなつかしく思い出し、ちょっとした探検に出かけるような軽い興奮を覚えた。


 一階には皆がいる応接間とその隣の茶室、それに座敷が四部屋と、長い渡り廊下でつながる離れがあった。
「お客様がお泊りできるように分かれてるんです。 酔って騒いでも母屋に響かないように。 たいていは良い方たちですけど、中には海賊みたいな人もいますからね」
 そう言いながら、綾野は赤茶けた土が広がっている庭の向こうにぽつんと建っている小屋を指差した。
「あそこにお父様の雇った男の人たちが寝起きしています。 庭仕事をするって周りには話してますけど、引っ越してきたばかりで、おまけに冬だから、植木は植えられないし、やることないんですけどね」
 そっと顔を寄せて、綾野は続きを言った。
「実は用心棒なんですって。 毎日交代で家を見回っているんですよ。 これが本当のお庭番」
「こちらにお倉も建てていらっしゃる?」
「ええ。 港に倉庫がありますが、そこに置けない貴重品は、こっちのほうに持ってきてあります」
 なるほど。 大きな商いをしている貿易商ともなれば、高価な品物を保管するのに気を遣うのは当然だ。
「だから庭からはネコ一匹入れません」
 綾野が言い切った丁度そのとき、離れの角から人影が現れた。 どう見ても用心棒の一人ではない。 それは、ほっそりした体に藤色の道中着をまとった若い女性だった。
 十二、三間離れたところから、その女性はゆらゆらとこちらへ向かってきた。 生き物としての重さを感じさせず、幻のようにはかない風情だった。
 やがて顔立ちがはっきりわかるようになって、志津は息を呑んだ。 これほど美しい人は見たことがない。 肌は抜けるように白く、鼻筋がすっと通って、唇は桜貝の色につやつやと輝いていた。
 横で鼻息が聞こえたので、志津は我に返った。 振り向くと、綾乃が志津の陰に隠れるようにして、袂の横から新たに現れた美少女を睨んでいた。
「綾野ちゃん、こんにちは。 房やが小豆粥をこしらえたのだけれど、多すぎたの。 叔母様大好きだったわよね? だからこうしてお持ちしたのよ」
 顔に似合った鈴を振るような声で、女性は話しかけてきて、手に提げた小さな鉄鍋をかかげてみせた。 綾野の前にいる志津は、いないがごとく無視された。
 綾野は明らかに不機嫌そうに、ぼそっと答えた。
「ありがとうございます。 母に渡しておきます」
「いいえ、私がお渡しするわ。 わざわざ持ってきたんですもの」
 あっさり綾野の言葉を打ち消すと、娘は渡り廊下の途中だというのに草履を脱いで、さっさと上がってきてしまった。
「それで、叔母様はどちらに?」
 ここぞとばかり、綾野は声を高くした。
「いま大切なお客様とお話しています」
 娘は弓形の整った眉を上げた。
「そう? でも私になら会ってくださるわ」
 それから不意に志津のほうに顔を向けて命じた。
「あなた、案内して」
 







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