表紙

 お志津 93 明るい家族



 神奈川駅に降りてから急いで改札を済ませ、横浜がもっとも早く開線したという鉄道馬車の運転時間に間に合った。 この人気の六人乗り馬車も、もうじき電化されて市内電車となり、姿を消すという。 敦盛からそう聞くと、志津は何だか惜しいような気がして、パカパカという蹄の音と共に前で揺れる馬の耳を懐かしく見つめた。


 終点で降りると、なだらかな坂道が目の前にあった。 道の端は陸側が区画整理されていたが、まだ住宅はまばらで、海のほうはまだ自然のままに放置され、砂利まじりの土に枯れ草がそよいでいた。
 鈴鹿家は、坂道を上がったところに建っていた。 敷地が大きく、隣家とずいぶん離れていて、丘の上の一軒家といった趣だ。 木造の洋館で真新しく、近づくとかすかにペンキの匂いが感じられた。
 玄関は浮き彫りをほどこした観音開きの扉だった。 前には五尺(約一・五メートル)ほどの円形花壇が左右に並んでいる。 春になれば美しい花で埋まるのだろう。
 一足先に敦盛が玄関に到着し、扉を開きながら大声で言った。
「ただいま戻りました」  すると、まっすぐ伸びた廊下の向こうから、加賀友禅のあでやかな晴れ着を着た少女が、凄い勢いで走り寄ってきた。
「おかえりなさい!」
 あやうく土間に落ちる寸前で急に止まった少女は、大輪の花のような笑顔を浮かべて膝を折り、廊下の端で正座するなり、客たちに頭を下げた。
「いらっしゃいませ、鈴鹿綾野でございます。 お待ちもうしあげておりました」
 綾野の後から早足で出てきた鈴鹿夫妻は、娘が楽しそうに挨拶しているのを見て、嬉しいような困ったような複雑な表情になった。
「ようこそおいでくださいました。 すぐお迎えに出るはずでしたのに、娘に先を越されて」
「この子ったら応接間の窓からずっと見張っていたんですよ。 未来のお義姉さまがいらしたら真っ先にわかるようにと」
「それはお気遣いありがとう。 優しいお嬢さんだ」
 義春がとっておきの微笑を綾野に向けた。 その笑顔で、彼は出版社のタイピストや女性電話交換手の好意を勝ち取っていた。


 両親の言葉通り、綾野は兄の影響で、本人に会う前から志津に好意を寄せていたようだった。 実際に見てがっかりしていなけりゃいいけど、と志津は心配したが、それは考えすぎだった。 むしろ志津が応接間に案内されて、いろいろ徳子夫人と語り合っているうちに、好感が増したらしく、話が途切れたわずかな隙を狙って、家を案内したいと言い出した。
 輸入物の猫足の長椅子に志津と並んで座っていた敦盛が、少しムッとなった。
「いや案内は僕がするよ。 綾野に任せたら、どこへ連れていかれるかわからない」
 すると綾野は一瞬口をとがらせたが、すぐ笑顔になった。 笑うと本当に愛らしい娘で、親たちがつい甘やかしてしまうのがわかる気がした。
「氷室〔ひむろ〕とか薪小屋とか? ねぇ志津さま、兄様はここへ引っ越してきた日、私を氷室に閉じ込めて鍵をかけたんですよ」
「あれは……!」
 敦盛は真っ赤になって反論した。
「おまえがはしゃぎすぎて、お父様の大事な海泡石〔かいほうせき〕のパイプを折ってしまったからじゃないか。 だから引越しが終るまで邪魔できないようにしたんだ」
「学校では女牛若なんて呼ばれているんですって。 ひらりひらりと飛び回って、いたずらばかりするので」
と徳子が苦笑混じりに嘆く。
「むしろ女弁慶だろう。 薙刀〔なぎなた〕の稽古が何より好きなんだから」
 そう敦盛が仕返しに呟くと、綾野はいきなり兄に向かって舌を突き出した。
「こら、大事なお客様が見えているのに行儀が悪い!」
 父親にようやく怒られても、綾野はめげず、志津の手をさっと取って引いた。
「お願い。 志津さまには決していたずらなんてしませんから」
 







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