表紙

 お志津 87 異国の服で



 甲斐介は厳しい表情になると、ぐいっと盃を干してから、短く答えた。
「お美喜と所帯を持った」
 義春はほっとした様子で、笑顔になった。
「めでたい話じゃないか」
「どこがめでたいものですか」
 すぐ珠江が吐き捨てるように言った。
「素性のわからない女を正式な嫁にするなんて、私はごめんです」
「だから寛太郎とは縁を切った。 松治郎に跡を継がせるよ」
 甲斐介のほうは、ややためらいがちな口調だった。 珠江ほど息子に失望していないらしい。 少し離れた席で従姉妹たちと話していた志津は、周りが静かになったせいで切れ切れに聞こえてきた叔父たちと父の話に胸を痛め、密かに考えた。
 世話になったお美喜さんを日陰の身にしておかなかった寛太郎ちゃんは立派だと、私は思う。 叔母さんもいつかは気を変えて、二人を迎えてあげることを祈ろう。


 その夜の初夢を、志津はまったく思い出せなかった。 何か夢に出てきたにちがいないのだが、ぼんやりした記憶さえ探りだせない。 ただ空白だけだった。
 それに引きかえ、父と母はそれぞれ縁起のいい夢を見たらしく、正夢ならいいがと朝食の席で二人してはしゃいでいた。
 二日はもう仕事始めだが、さすがに三が日はのどかな雰囲気で、家族そろって初詣に行った近くの寺は着飾った善男善女でにぎわっていた。 そこでも志津は、奇妙な体験をした。 家族三人で引いたおみくじの結果が、真っ二つに割れたのだ。
 父と母が引き当てたのは大吉だった。 しかも、望みはたちどころに叶うだの健康長寿だのと嬉しくなるようなことばかり書いてある。 二人はますますご機嫌になったが、続いて引いた志津のくじを見て笑顔が消えた。
「なんでおまえだけ。 はやく縁起換えをしなくては。 あの枝に結んでおいで」
 志津も少し衝撃を受けたものの、すぐ気を取り直していた。
「凶ぐらい、大したことはないわ、お父様。 大凶だったら嫌だけど」
「それでも行っていらっしゃい。 気が休まるから」
 葉を落とした枝には、すでに白いおみくじの列ができていて、時ならず咲いた花のようだった。


 正月三日の午後に、敦盛の両親が峰山邸を訪ねてきた。
 近頃では洋装の紳士は珍しくなくなったが、洋服を着た女性となると、まだ稀〔まれ〕な存在だった。 なにしろ当時の西洋では裾を引きずり、胴回りを思い切り締め上げる服が一般的。 その上、鯨のひげや鋼鉄で作った固い下着を着けねばならず、その他にもスカート下や靴下や靴下止め、ドロワーズと呼ばれた下穿きなど、やたら着にくい上に数が多く日本の気候にも合わない、というありさまで、普及するわけがなかったのだ。
 男性でさえ、外では仕方なく背広を着ても、家に帰ったとたん着物を着てくつろぐのが普通だった。
 ところが、敦盛の母である徳子〔とくこ〕は、体に添わせた天鵞絨〔ビロード〕の旅行着の上に、毛皮で裏打ちした長マントを着て、踵の高い編み上げ靴を穿いて人力車から降りてきた。







表紙 目次 文頭 前頁 次頁
背景:kigen
Copyright © jiris.All Rights Reserved
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送