表紙

 お志津 86 忙しい元旦



 夜の間に、重く垂れ下がっていた雪雲はすっかり消えた。
 だから翌日の元旦は、歯が鳴るほど寒い夜明けとなった。 直造は初日の出が拝めたと喜んでいたが、若水がかちかちに凍る気温で、井戸水を汲んで顔を洗うと手が真っ赤になった。
 それでも志津は朗〔ほが〕らかだった。 郵便受けから溢れ出しそうな年賀状の束を抱えて玄関に持ち込み、より分けて三つの山に重ねながら、小声で歌を口ずさんでいた。
 やがて威勢のいい嗽〔うがい〕の音が聞こえ、手ぬぐいを肩にかけた父が廊下を歩いてきた。
「おう、新年おめでとう」
「おめでとうございます」
 はい、と言って書状の束を渡すと、義春は一通一通差出人を確かめて、うなずいたり唸ったりした。
「ほう、下川〔しもかわ〕から来ているぞ。 何年ぶりかな。 仁科〔にしな〕は毎年よこすんだ。 ちゃんと今年も書いてきている」
 そこへ台所から母も現れた。 すでにきちんと正月らしい服装にしていて、昨日の夕方、髪結いを頼んで結い上げた丸髷が乱れ一つなく決まっていた。
「あら、私のも分けておいてくれた? 今年は結構来ているのね」
 母の声も弾んでいる。 久々に訪れた家族の吉事というのは、こんなに家の雰囲気を盛り上げてくれるものなのか。 志津は自然に笑顔を誘われて、軽い足取りで廊下を歩いていった。


 朝の祝い膳は、例年のように座敷を二間続きにして、下座に使用人たちが座って皆で頂いた。 声の綺麗なお蓉が直造にせがまれて、めでたい民謡を披露すると、お若が立って可愛らしい踊りをつけた。
 やんやの喝采がうらやましかったのか、新米の勝次までが笊〔ざる〕を持ち出して、自分で歌いながらどじょうすくいを踊りまくり、大爆笑になった。
 鳥取県で生まれたどじょうすくい(安来節)は、明治の初めに大阪や東京などに進出しはじめていて、後に浅草や道頓堀で空前の人気になるきざしが出ていた。


 やがて表で人の呼ぶ声が聞こえた。 新年の挨拶回りが始まったのだ。 使用人たちは急いで片付けを始め、志津も手伝って、座敷はあっという間に客を迎える準備が整った。
 玄関先だけで帰る客が多かったが、親戚筋は上がりこんだ。 また白梅錦が持ち出され、談笑の声が廊下まで広がった。
 志津の婚約は、相手の親と会うまでは本決まりではないので、発表されなかった。 しかし、娘にはもう決まった相手がいると仄めかされて、郡甲斐介と珠江夫妻、つまり寛太郎の両親は、はっとした表情になった。
「そうですか、やはり。 お志津ちゃんこの前道で出会ったとき、すっかり垢抜けて綺麗になっていたから」
 珠江はどことなく悔しそうに言った。 どうしてあのとき教えてもらえなかったのかと、ひがんでいるようにも見えた。
 咲が急いで弁解した。
「いえね、年末にばたばたとお話が進んでしまってね。 私達も急なことで驚いているんですよ」
「それて相手は、どんな人なのかな?」
 甲斐介がさりげなく訊いた。 義春は盃を渡しながら、こちらも何げない風で答えた。
「それは本決まりになってから言うよ。 ところで、寛太郎くんはどうしている?」
 とたんに周囲の話し声が低くなった。 みんな聞き耳を立てているようだった。







表紙 目次 文頭 前頁 次頁
背景:kigen
Copyright © jiris.All Rights Reserved
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送