表紙

 お志津 83 陰徳を積む



 出かけたといっても、志津の父である義春が外出したのは、押し詰まっててんやわんやの家から口実を設けて抜け出しただけだった。 自ら先頭に立って掃除を指揮する主〔あるじ〕もいるが、たいていの夫は居場所がなくて逃げてしまうものだと、志津は承知していた。
 だから昼になって、父が包みを下げて、直造たちが手早く雪かきをした道から帰ってくるのを見つけたとき、ほっとした。 同じように暇な友人につかまって碁の相手でもさせられたら、夕方まで行方不明になってしまうところだ。
 志津が裏口から顔を出すと、義春はなんとなく照れくさそうに包みを持ち上げて見せた。
「作治〔さくじ〕に会って、酒を貰った。 白梅錦という上等な酒だそうだ」
 峰山作治は高木村の村長で、義春の弟だ。 面倒見のいい人で、村の評判がいい。
「おかえりなさい。 雪が止んでよかった。 お客様が来ています」
「客? わたしに?」
「いいえ、いえ、そう、えぇと」
 珍しく志津がしどろもどろになっているのを、義春は驚いて眺めた。
「なんだ? 来てもらっちゃ困る人か?」
「ちがいます! あの」
 立ち止まりかけた父を玄関へ引っ張っていきながら、志津は小声で告げた。
「鈴鹿さんなの。 覚えていますか? 寛太郎ちゃんの同級生の」
 とたんに父が真面目な顔になった。 そして、玄関に入って戸を閉めると、志津に向き直って静かに言った。
「覚えているとも。 この間、おまえに手紙をよこしていたな?」
 父と娘の目が合った。 義春の強い眼差しに、珍しく志津のほうが耐え切れず、視線が揺れて横に流れた。
「お父様に黙っているつもりはなかったんです。 ずっと友達と思っていたし、あれが初めて貰った手紙で」
「わたしには言いにくい内容だった」
 志津は喉が詰まるような気がした。
「お母様にも見せていません。 返事を書いてお互いの気持ちを確かめてからと……」
「それで? おまえは敦盛くんを選んだのか?」
 単刀直入の問いだった。 志津は父から受け取った酒瓶の包みを胸に抱き、壊してしまいそうな勢いで力を入れた。 それから改めて顔を上げると、父をまっすぐ見つめた。
「はい。 あの人が大好きです」


 沈黙が落ちた。 志津には何分にも感じられる長さだったが、実際には五秒ほどだったろう。
 義春はゆっくり息を吐いた後、意外なことを言った。
「実は定昌が、敦盛くんをえらく気に入っていてな」
 志津は驚くと同時に、心の底から嬉しくなって、息を弾ませた。
「お兄ちゃんが?」
「そうだ。 寛太郎も定昌には親切だったが、敦盛くんは別格だった。 定昌が一人でぽつんとしていると、よくやってきて話し相手になったんだと。 おまけに、定昌が外にあこがれている気持ちを察して、人力を借りてきて川まで連れていってくれたんだよ。
 疲れないように半時間ぐらいのものだったが、まだ十代半ばにしては凄い力持ちで、平らな道を選んでブンブン飛ばして往復したので、まるで空を飛んでいるように楽しかったらしい」
 わざわざ人力車を借りて。
 気づかないうちに志津は涙ぐんでいた。
「知らなかった」
「ああ、固く口止めしていたんだ。 寛太郎に嫌な思いをさせたくなかったようだ。 おまえにいいところを見せたがっていると言われたくなかったんだろう」
   







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