表紙

 お志津 82 善は急げと



 使用人たちが罪のない噂話をしているとは知らず、志津はそわそわしながら廊下を歩いた。
 雪はだいぶ小降りになって、灰色の雲に隙間ができ、青い空があちこちから覗きはじめていた。 この分だと間もなく日が差してきて、もろい牡丹雪は解け出すだろう。 正月の道はぬかるみそうだ。


「失礼いたします」
 一声かけて障子を開けると、正座した敦盛と、背筋を伸ばして膝にきちんと両手を載せた母の咲が見えた。 同時に志津のほうへ向けた顔は、緊張の色が見えたが明るかった。
「ああ丁度いいところへ」
 咲はそう言い、娘に淡く微笑んでみせた。
「今、鈴鹿さんがあなたと正式にお付き合いしたいと申し出られたのよ」
 とたんに志津の鼓動が跳ね上がった。
 そっと敦盛を見ると、彼も口元をほころばせていた。 つれなく断られなかったのは確かだ。 志津は母に向き直り、両手をついて頭を下げた。
「どうか私からもお願いします」
 母は志津の反応を予想していたようで、驚かなかった。
「そう。 私に異論はないけれど、お父様が戻って報告するまで、はっきりとは言えません」
 建前はそうだが、志津の判断力を信頼している義春が交際を禁ずるとは、まず考えられなかった。 母が否と言わなければ、ほぼ決まったと同じだ。
 志津が幸せに満ちて大きく息を吸ったとき、次の言葉が続いた。
「ただ、敦盛さんは鈴鹿家の長男でしょう? お父様はご承知なのですか?」
 敦盛は落ち着いて答えた。
「父には前に、好きな人がいると伝えてあります。 父は豪放な男で、本気なら障害があっても乗り越えていけ、と励まされました。 そのときは無理でしたが、今は言えます。 志津さんと力を合わせて、これからの人生を生きていきたいのです」
 敦盛の眼には輝きがあり、声には力強さが溢れていた。 志津を心から望んでいるのは、疑いようがなかった。
 咲は彼の真面目さを感じ取って、一段と優しい目になった。 そして何かを言いかけたとき、違い棚に置かれた大理石製の置時計が、鈴のような音で鳴り出した。
「あら、もう十一時」
 すぐに咲は目覚めたように活気を帯びた。
「何もありませんが一緒にお昼を食べていらしてくださいね」
「いえそんな。 勝手に押しかけてきたのですから、もうお暇しないと」
「すぐ夫が帰ってくるはずですので。 ご実家が横浜では、こちらまでまた来ていただくのは大変ですもの。 せっかく見えた今日のうちに」
 すぐ敦盛は腹を決めた。
「ありがとうございます。 では遠慮なくご馳走になります」
 







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