表紙

 お志津 77 婚約は遠く



 確かに妻の格としては、元飲み屋のおかみというのは肩身が狭かろう。 寛太郎が将来官僚か一流会社の幹部を目指しているのなら、出世のさまたげになるかもしれなかった。
 だが以前ほど家柄が幅をきかせているわけではなかった。 維新の主役は下級武士と成り上がりの新興商人だし、元勲の中にも芸者を正式な奥方にした人がいる。 今のうちなら、むしろ糟糠〔そうこう〕の妻(=貧しいとき共に苦労した妻)として、美談の対象になるかもしれない。
「寛太郎ちゃんは、いつも手作りのお弁当を持ってくるそうですよ。 大切にされているんじゃないでしょうか」
 驚いて上げた珠江の眼が光った。
「お志津ちゃんどうしてそんなことを知っているの?」
「それは、寛太郎ちゃんのお友達にたまたま逢って」
 すぐに本当のことを話したものの、顔色はどうにもできなかった。 敦盛の手紙が届いてからずっと、彼を思い出すたびに自然と上気してしまうのだ。 寒さのせいでもともと鼻が赤かったところへ、ぱっと目元まで桜色に染まって、ずいぶん人目を引くようになった志津の若さにあふれた顔を、珠江は切なそうに見つめた。
「うちとしては、お志津ちゃんがお嫁に来てくれるのを、首を長くして待っていたんだけどねえ」
 志津は思わず目を伏せた。 自分から望んだことではないが、破談になったのをどこかでありがたがる気持ちがあって、気がとがめた。
「そう言ってくれるのは、おばさまだから」
「ちがいますよ」
 じれったそうに、珠江は袂〔たもと〕をひるがえして大きく手を振った。
「もう惜しんでも、せんない夢だけれどね。 どうかいい人を見つけて幸せになってね」
 志津は、どきりとしながら頭を下げた。
 まだ彼女の恋は始まったばかり。 これからどんな道をたどるか、見定められない。 彼には家族がいて、おまけに長男だ。 責任がある身の上だし、私にも一人娘という立場がある。
 でもそういう浮世のしがらみに頭を痛めるより先に、何より彼に会いたかった。 彼の顔が見たい。 手と手を重ね、深く気持ちのいい声が名前を呼んでくれるのを、この耳でじかに聞きたかった。



 二人と別れて家へ帰ると、魚屋が正月用の鯛や田作り、でんぶなどを売りに来ていた。 いよいよ明日は大晦日だ。 家中をあげて大掃除に励むことになる。 今夜は早めに寝て、英気を養っておこう。 志津は気持ちを新たにして、しゃっきりした足取りで廊下を歩いていった。
 その途中で、日の当たる縁側にくけ台を持ち出していた母に出会った。
「あらお帰り。 丁度よかったわ。 この針に糸を通してちょうだい。 近頃日増しに目が悪くなってね」
 さっそく針と糸を受け取って母の傍らに座りながら、志津は歳月の流れに気づいた。 まだ若いと思っていた母が、老眼になっている。 これまで家回りのことはろくにせず、甘えて母まかせにしていたが、これからはもっと手伝って、苦労を減らす努力をしなくては。
「明日の埃払いは、どこが一番大変かしら」
 針を受け取って布をくけ台にはさむと、母は眉を寄せて考えた。
「そうねえ、お蔵のすす払いかな。 去年やらなかったから、今年は手が抜けないの」
「じゃ、私がやります。 助手にお若さんを借りていい?」
 母は目を丸くした。
「いいですよ。 あなたが自分から言い出すなんて、明日は大雨にならないといいけど」








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