表紙

 お志津 76 寒空の下で



 大晦日まで、まだ五日ある。 昼食の後、志津はいつものように村へ出て、皆に慌しく挨拶を済ませた後、買い物へ行こうと誘う母に付き合って出かけたが、店でも放心状態で呆れられた。
「ほら、しっかりして。 買いに来たのはお父様の足袋〔たび〕よ。 子供用を持ってきてどうするの」
「あら……」
 あわてて陳列棚へ返しに行くと、昔から顔見知りの店主が笑いながら話しかけてきた。
「なんか雲に乗っているようだねえ。 お嬢さん何かいいことあったかね?」
 とたんに志津は真っ赤になった。 頬がじんじんするほど熱くなったため、自分でも赤面しているとわかった。
 店主の言葉に何気なく振り返った母が、びっくりして目を見張った。
「まあ、どうしたの? あなたが赤くなるなんて、これまで見たことがない。 鬼の霍乱〔かくらん〕かしらねえ」
 そう言って、店主と二人して笑い出したので、志津は内心むっとした。 こうやってバカにするから、女らしさなんて育ちようがないんだ、と。


 出鼻をくじかれて、志津はその日、敦盛の手紙のことを母に打ち明けられなかった。 そして翌日も、また翌々日も。
 心の大半を占領していた返信をようやく書き上げ、逓信局へ出しに行った休暇三日目、寒空の下でメリヤスの手袋をはめてもまだ冷たい手をすりあわせながら歩いていると、郡珠江が次男の松治郎と歩いてくるのが目に入った。
 珠江は寛太郎の母親だ。 逢うのは半年ぶりだった。 向こうがはっとして足を緩めたので、気まずい空気になる前に、志津は大きな笑顔になって小走りで近づいた。
「おば様こんにちは。 松くん寒いねえ。 切れた凧見つかった?」
 松治郎とは変わらず仲がいい。 退屈そうに歩いていた少年の表情が生き生きとなって、すぐ答えが返ってきた。
「うん、お寺の杉の木に引っかかってた。 小坊主さんが取ってくれたよ」
「へえ、良念さんが。 今度逢ったらお礼を言おう。 あれ、兄さんが作った凧だもの」
「だから大事にしてるんだ。 あんなにつりあいのいい凧はないよ」
 立ち止まってぺちゃくちゃとしゃべり出した二人を眺めて、硬かった珠江の表情もなごんだ。
「ほんとに定昌さんの作ったものはどれも出来がよくて、長持ちするから」
「ありがとうございます」
 それから決心をつけて、珠江は後を続けた。
「うちのどら息子のことで嫌な思いをさせて、申し訳なかったと思っています。 この間会ったときは時間が短くて、きちんとお詫びできなかった。 心苦しかったわ」
 志津はまじめな顔になって、苦労の皺が増えた珠江を包むような眼差しで見返した。
「確かに驚きましたけど、嫌な思いなんてしていません。 それにあの後、山道で逢って、どういういきさつか説明してくれましたし。 学業と仕事との両方で大変でしょうが、きっと卒業して立派な職業に就くつもりだとも」
「あの子は小さいときから頑固で」
 珠江の声が低くなった。
「相手の女の人は正式な妻にしてほしいらしいの。 でもうちの人は大反対で。 一緒になったら勘当すると言っているわ。 そもそも寛太郎のほうから出ていったんだから、いまさら勘当もないだろうけど。 ともかく私も、五歳年上だしああいう商売をしているひとはねえ……」
 言葉を濁してうつむく顔が辛そうだった。







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