表紙

 お志津 75 恋の初めは



 その夜、志津にしてはとても珍しいことに、真夜中になっても寝付けなかった。
 まず、胸の動悸がなかなか治まらない。 いったん静まっても、敦盛の手紙の文面を思い出すたび、一挙に速くなった。
 これはただごとじゃない。 そう志津は気づいた。 今まで敦盛さんのことを頼もしい友人としか思わなかったはずなのに。
 いや、違う。 嘘だ。 私はずっと、自分の心に嘘をついていた。
 志津は寝返りを打って横向きになり、目頭ににじんできた涙を乱暴に拭った。 やっと真実に向き合うことができた。 初めから、たぶん鼎山の木の上から柿の花を投げ落として、最初に彼と目が合った瞬間に、何かが起こったのだ。
 でも、認められなかった。 そんな勇気がなかった。 寛太郎にいつも山猿扱いされて、女の子としての自信なんか、からっきし無かったせいだ。
 志津はもう一回大きく寝返りをして、反対向きになった。 寛太郎と同じ平凡な学生の身なりをしていても、敦盛は粋〔いき〕だった。 開放的な港町で商店に育ったためか、動作や話し方が垢抜けていた。 それでいて、彼には人を見下すようなところはなく、冗談がうまくて面白かった。 そんな彼に友達扱いしてもらっただけで、志津は嬉しかったのだ。
 明日は返事をどう書こう。
 考えただけで、また鼓動が高まった。 恋文なんて書いたことがない。 自分にうまく書けるとは思えなかった。 それで悩んで、いっそう目が冴えてしまった。


 翌日、志津は十時過ぎに、口はへの字、目は充血して半分ふさがった状態で、裏の井戸に現れた。
 もうとっくに庭掃きを済ませた下男の直造が、霜の溶けやらない木陰に立って枯れ枝の剪定をしていた手を休め、笑い顔で振り向いた。
「おはようさんとは、もう言えませんな。 うちはいいでしょう? いくらでも寝坊できて」
 志津はへたれた笑顔を返し、小さな盥〔たらい〕に水をくんで、指が凍りつきそうなその水で顔を洗った。
 そして急いで手ぬぐいで拭いてから、きちんとした庭を見回した。 すると、つんつんと葉を立てた小さな苗が、行進する兵隊のように並んでいるのが目に入ってきた。
「あら、新しく松を植えたの?」
 とたんに直造は専門家の態度になり、偉そうに首を振った。
「松じゃないですよ、志津嬢ちゃん。 それは槙〔まき〕。 高野槙〔こうやまき〕といって、伸びが遅いから手入れが楽だし、形よく整うんです」
「大器晩成というわけね」
「まさにその通り。 わしも長生きして、この木が格好つくまでお屋敷で世話していたいもんです」
「きっとそうなるわ。 よろしくお願いします」
 志津は本心から直造に頭を下げた。 故郷の人や物に、変わってほしくなかった。 ずっとこのまま、懐かしい姿で迎えてほしかった。
 直造は半ば驚き、半ば照れた風で頭に手をやった。
「いや、そんなご丁寧に。 うれしいですよ。 それにしても嬢ちゃん、こう言っちゃわるいが、ひどいお顔だ。 学校で何かあったのかね?」
「いいえ!」
 しょぼくれていた笑顔が、一気に大きく花開いた。 志津はよく晴れた空を見上げ、太陽の光を浴びて、心の底から答えた。
「昨夜は嬉しくて眠れなかったの。 素晴らしい手紙が来てね」








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