表紙

 お志津 74 想い想われ



 自室へ入って荷物を置くと、志津は着替えもそこそこに、文机の上にあった封書を手に取った。
『拝啓
 久方にお目もじ候〔そうろう〕』
 うわっ。 志津は目を丸くした。 正式すぎる。 これじゃ返事を書くのが大変だ……
『と、この調子で流麗に書き続けたいのですが、力及ばず。 ここからは、鈍な学生の雑な文で許してください』
 書きながらにやにやしている敦盛の顔が見えるようだ。 志津も顔をほころばせて、紙を広げていった。


 手紙の前半は、先日話してくれたのと同じような寮でのバカ話だった。 志津は何度も爆笑し、笑いすぎて涙を拭いながら読んだ。
 だが後半になると、内容が一転した。
『こんな我等でも、あと数ヶ月でめでたく卒業の運びになりました。 その後は、実家の貿易業を継ぐ心づもりでいます。
 貴女〔あなた〕も天職のような教師業を続けたいとお思いでしょう。 ですが、僕には密かな願いがあります。
 友人の郡寛太郎が貴女の許婚である内は、決して口に出せないことでした。 しかし彼が自ら家を出て、絆を放棄した今、明かさずにはいられなくなりました。
 実は鼎山で初めて出逢って以来、貴女に不思議な縁〔えにし〕を感じていました。 郡もうすうす気づいていて、もう貴女に会おうとするなと釘を差されたほどです。
 でも、すでに禁は解けました。 卒業証書を手にしたら、東京にいるうちに貴女の元に駆けつけて、気持ちを打ち明けようと決めていました』
 志津の息が、驚きに浅くなった。
 反射的に片手が喉元を押さえた。 突然心臓が倍ぐらいの大きさに思え、どくどくと耳を聾するほどの鼓動を立てた。
『 そんな折、道で貴女を見つけることになり、本当に驚きました。 できれば勤め先まで送っていきたかった。 そして貴女の気持ちを知りたいと思いました。 傍を離れない馬渕が憎かったです』


 これは恋文だ。
 ここに至って、志津はようやく実感した。 あの敦盛が、大きくて器量よしで体格のわりに驚くほど優雅で、おまけに賢くて楽しい、あの素敵な人が、私を……。
 いきなり全身が喜びに沸き立った。 手紙を握ったまま、志津は畳の上で飛び上がり、両手を突き上げて固く目をつぶった。
 ほんとに私? 私でいいの? と、心の中で叫びながら。


 夕食の席で、両親は不思議そうに、幾度も志津のほうをちらちらと見やった。
 無理もない。 帰宅直後は、やはり家が一番だとはしゃいでいたのに、信じられないほど物静かになっている。 しかも箸が進まない。 大食漢の志津がご馳走を前にぼんやりしている姿など、普段からは想像できなかった。
 芋の煮付けをポロッと取り落としたのを見たとき、たまりかねて母の咲が尋ねた。
「どうしたの? お行儀が悪いわよ」
 はっと我に返って、志津は赤面した。
「すみません、お母様。 考え事をしていて」
「何か悩みでも?」
 これは父。 志津は訳を話したくてたまらなかったが、思いとどまった。 軽挙妄動はいけない。 まず敦盛にきちんと返事を書いて、お互いの心をもっと知らなければ。
「いいえ、きっと疲れているんです。 責任のある仕事を初めて三ヶ月も勤めたので」
「そうだろうな。 給金を貰う仕事は、すべてきついものだ」
 両親はすぐ納得してくれた。







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