表紙

 お志津 73 兄は消えず



 雁家宇乃の無断外出は、志津が代理で休校届を出して行動を保証したため、何事もなく収まった。
 そして終業の日が来た。 志津はいつもに増してその日を待ちかねていて、前日には荷物をすっかりまとめ、伯父の家に挨拶をすませていた。
 母の兄で裁判官の山根俊は、巷〔ちまた〕で評判の汚職事件を扱っているとかで、とても忙しそうだったが、お気に入りの姪が訪ねてきたので、喜んで時間をやりくりして夕食を共にした。
 明るくてどこかとぼけた貴代夫人も前のままだったし、三人の息子たちはそれぞれ少しずつ大きくなって、個性が際立ってきていた。
 志津は子供達がかわいくてしかたがなかった。 特に次男の孝次郎〔こうじろう〕と気が合ったが、今回訪れて、その訳がようやくわかった。 彼が兄の定昌を思わせるからだったのだ。
 顔はさほど似ていなかった。 ただ、やることはそっくりで、新しい機械を見つけると夢中になってしまい、しげしげと観察して仕組みを知ろうとした。
「あやうくわたしが記念にもらった懐中時計を壊してしまうところだったよ。 上手に裏蓋をこじ開けてね。 どうやってあんな器用なことができるのか」
「指が小さいからですよ。 爪が丈夫だし」
 貴代が笑って指摘した。 そして、まるで志津の心を見抜いたように付け加えた。
「この子を見ていると、定昌さんを思い出すの。 血は争えないわねえ」
 こみあげてくるものを抑えて、志津はしっかりした声で応じた。
「それじゃ、末は博士か大臣か、ではなくて、博士か科学者か、ですね。 その両方かな」
「そうなってくれれば頼もしいが。 まあ努力はするだろう。 いつも本人が機械のように疲れ知らずに動き回っているからね」
 俊氏は忙しくても、子供達の個性をちゃんと見極めていた。 長男の信吾は責任感が強くて弁が立ち、三男の充雄はおっとりしていて周りをなごませる力があるという。
「うちは財産家とはいえないから、皆自分の力で生きていかなきゃならない。 幸い三人とも、学問は嫌いではないようだ。 頑張り屋の君と育った影響も大きいだろうな」
 急にほめられて、志津の顔が赤くなった。
「いえ、私は何も」
「そんなことはないわ」
 貴代夫人が身を乗り出し、真剣な顔で言った。
「実を言うと、あなたが卒業して故郷に帰ってしまってからしばらくは、てんやわんやだったの。 それまでうちの子はなんて素直で手がかからないんだろうと、内心自慢に思っていたのに」
 長い食卓に並んで座っている三人兄弟は、こっそり目を見交わして笑いをこらえた。
「志津ちゃんの子供扱いのうまさはすごいわ。 きっと生まれつきの才能ね」
「いい猛獣使いになれる」
「あなた」
 貴代が横目でにらむと、三兄弟はこらえきれなくなって、くすくす笑い出した。


 今回、志津は一人で古里に帰ることにしていた。 日本は江戸のころから女一人で旅ができる治安のいい国だ。 だからスリと置き引きに気をつければ大丈夫、と、伯父がつけてくれようとした書生を断って、志津は自分で切符を買い、汽車に乗った。
 無事に帰りついた家では、両親の歓迎と共に、手紙が待っていた。 敦盛は達筆で、ちまちまとペンで書くのではなく、巻紙に墨の色も黒々と毛筆でしたためていた。








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