表紙

 お志津 72 駅での約束



 夜道に三人の下駄の音がカラコロと響く。 心配事が消えたので、行きと違って陽気に聞こえた。
 二人の若者は志津をはさむ形で歩いていた。 だから寒さがやわらいで快適だったものの、馬渕〔まぶち〕がいるせいで、敦盛と昔話ができないのが、少し歯がゆかった。


 市電の駅にたどりついたとき、馬渕が近くのタバコ屋に目を留めたので、ようやく二人きりになれた。
 敦盛もその機会を待っていたのだろう。 馬渕が店に入るとすぐ、大きな体をかがめるようにして、低く話しかけてきた。
「郡〔こおり〕の家は大変だったらしいな」
 志津は影になった敦盛の顔から目をそらさず、ゆっくりうなずいた。
「寛太郎ちゃんは、元気に学校へ通っている?」
「ああ、まめに来てるよ。 元気と言えるかどうかは、よくわからんが」
 そう答えてから、敦盛は具合悪そうに低く咳払いした。
「いつも、うまそうな弁当を持ってくる」
 志津は思わず微笑んだ。 飲食店をやっているという恋人は、なかなか面倒見がいいらしい。
「よかったわ。 お美喜〔みき〕さんとうまく行っているのね」
「知ってるのか」
 敦盛は驚いた。 志津は笑顔のまま説明した。
「筧山まで会いに来てくれたの。 あのまま家にとどまっていれば苦労しないですんだのに、偉いと思った」
 敦盛は、かすかに震える息を吸い込み、口を閉じた。


 一分ほど、二人は無言で立っていた。 やがてチリンチリンという鐘の音を響かせて、市電がやってきた。
「今日はどうもありがとう。 本当に心強かった」
 志津は明るく言って上り口に足を掛けたものの、妙に膝が重くて驚いた。
 何気なく目をやった先で、馬渕が急いでタバコ屋から駆け出してくる姿が映った。
 とたんに敦盛が一歩前に出ると、志津を食い入るように見つめて尋ねた。
「手紙、出してもいいか?」
 不意に物足りなさが消え、胸にあたたかいものが広がった。 志津は体をよじって振り向き、弾む声で答えた。
「私も書くわ。 宛先は高木村までで届くから。 返事は学校気付けで大丈夫かしら?」
「もちろん」
 敦盛の声も飛び跳ねた。 そこで笛の音とともに扉が閉まり、市電は発車した。
 志津は奥の座席まで急いで行って、後ろの窓から手を振った。 すると、ようやく停留所に戻ってきた馬渕が、肘まで素肌が見えるほど腕を挙げて振り返した。
 敦盛は、肩の近くで手を開いていた。 長い指がゆっくり横に揺れるのを、志津はまばたきもせず凝視していた。








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