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 お志津 70 別れがたく



 ひどい病気ではなかったとはいえ、風邪は万病のもとだから小まめに様子を見るように、と宇乃に念を押して、幸田医師は帰っていった。
 玄関口で頭を下げた後、茶の間に戻ってきた宇乃は、ふらっとよろめいた。 安心したため、疲れがどっと出てきたようだ。 志津はすばやく立ち上がって宇乃を支え、廊下に導きながら小声で尋ねた。
「あなたのお寝間は?」
「あの突き当りです」
 志津の身長は並みより少し大きく、宇乃は小さい。 しかも志津は筧山の急坂や高い柿の木で自然に体を鍛えているから、力も強かった。 軽々と宇乃の体に腕を回して寄りかからせながら、ぐんぐんと廊下を進み、目的の部屋に入ると、がくんと膝を折って畳に横座りになった宇乃をいたわった。
「お父様、大事に至らなくてよかったわね。 少し横になっておやすみなさい。 お布団を敷きましょう」
「いえ、そんなこと先生にしていただいては」
 あわてて立ち上がろうとする宇乃を、志津はやさしく押しとどめて、押入れから手早く布団を出した。
「今夜のお父様はあなたが頼りなんだから、元気でいないと。 半時間でも寝れば、すっきりするわ。 その間、私は向こうにいますから安心して」
「申し訳ありません……」
 囁くようにそう答える間にも、宇乃の瞼はすでにくっつきそうになっていた。


 志津が茶の間に戻ると、若者二人は所在なげに座って、小声で話しこんでいた。
「宇乃さん疲れ果てているから、ちょっと休んでもらったわ。 お二人には関係ないのに、時間を取らせてごめんなさい。 私はもう少しここにいないといけないので」
「おっと。 ここまで付き合ったら最後まで見届けるよ」
 敦盛がのんびりした口調で言い、馬渕も熱心にうなずいた。 どちらも急ぎの用事はない様子だった。
「ここの娘さんはしばらく学校に戻れないらしいが、君は帰るだろう? やはり送っていかなきゃ」


 そうきっぱり言われたとき、志津は胸が温かくなった。 久しぶりに出会った敦盛と、簡単に別れたくなかった。 彼と話すといつも心が広がって、新鮮な空気を深く吸い込んだような気がする。 きっと初めて逢ったときの筧山の鮮やかな景色が、敦盛を見るたびによみがえってくるからかもしれない。
 だから志津は、もう遠慮しなかった。
「そう? ありがとう。 じゃ、学校の話を聞かせて。 男の人たちはどんなことを学んでいるの?」
 馬渕がくすくす笑い出し、敦盛も笑顔になった。
「学ぶというか、確かに学問にはみな熱心だが、学んでいない時間のほうが面白いな、いろいろと」








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