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 お志津 69 困った事情



 気丈に一人で家へ帰ってきたといっても、宇乃はまだ十六歳に満たない。 大きな家なのに奉公人さえいなくて、片付けや食事の支度、父の看病まで二、三時間でやり抜いて、身も心も疲れきっているらしく、茶の間に皆を案内して座布団を出し、茶の用意をした後は、志津の手を握りっぱなしだった。
 どんなに心細かっただろう。 志津は宇乃の冷えた手をしっかり握り返し、これからどうすべきか考えた。
「お世話できるのは、あなただけ?」
「はい」
 宇乃は無念そうにうなだれた。
「お松とお梶〔かじ〕という女中さんが二人いたんですが、どちらも義理の母が連れてきた人で、義母と一緒に出ていってしまったようで」
 志津の目が怒りに燃えた。 いくら喧嘩したからといって、病気の夫を無人の家に放り出して里帰りするとは!
「そこまでなさる人なら、すぐには戻ってこないでしょうね。 わかりました。 あなたが無断外泊にならないよう、とりあえず学校に休学届を出しましょう」
 宇乃は強く息を吸って、頭をぎくっと上げた。 大急ぎで帰宅することしか頭になく、黙って学校を出てきてしまってはまずかったと、今の今まで気づいていなかったようだ。
「あの……はい。 すみませんでした。 ただ夢中で」
「大丈夫ですよ。 同級の人たちは口が堅いから」
 そう安心させて、志津は励ますために明るい笑いを浮かべた。
 そのとき、廊下を人が歩いてくる音が聞こえた。 宇乃ははじかれたように立ち上がり、客三人に告げた。
「お医者様です」
 急いで障子を開くと、黒い鞄を提げた三十がらみのキリッとした男性が振り向いた。
「ああ宇乃ちゃん、ここだったか」
 親しみのある口調だった。 長い知り合いらしい。 宇乃がすがるように尋ねた。
「先生、入って話を聞かせてください。 お父さんは?」
「うん、熱がちょっと……」
 話しながら敷居をまたいだところで、医者は座卓を囲んで座る三人に気づき、立ち止まった。
「お客さま?」
 志津がすぐ、座布団を裏返して医者の前に差し出した。 その間に宇乃が説明した。
「女学校の先生と、お連れの方々です。 心配して来てくださいました」
「それはどうも。 医師の幸田〔こうだ〕です」
「はじめまして。 峰山と申します。 お勤めご苦労様です」
 次いで、敦盛と馬渕も頭を下げた。
 きちんと手をそろえて挨拶する志津を、幸田医師は好ましげに見やって一礼した。
「ご丁寧に。 では失礼して」
と言いながら、出された座布団に座ると、彼はてきぱきと説明を始めた。
「雁家のご隠居は、風邪をこじらせたようだ。 幸い、肺炎には至っていないし、近くで流行りだした感冒の症状も出ていない」
「よかった」
 宇乃は胸を押さえて、また涙ぐんだ。
「後三日もすれば起きられるようになるだろうが、まだ熱があるのでね。 一両日は無理をしないで安静にしていらっしゃい。 熱さましを置いておくから、朝と晩に水で飲ませるように」
「はい、ありがとうございました」
「万一呼吸が苦しくなるようだったら、すぐに知らせてくれ。 何時でも往診に来るから」
「よろしくお願いします」
 宇乃の頬に薔薇色の輝きが戻ってきた。 そして、いいと医師が言うのに、重そうな黒い鞄をいそいそと抱えて、見送りに行った。


 残された三人も、ホッとして顔を見合わせた。
「大事に至らなくてよかった」
 敦盛が気持ちを代表して口に出し、後の二人もうなずいた。
 だが志津にはまだ気にかかることがあった。
「お父様が順調に直るとして、身の回りのお世話はやはり必要だわ。 近くにいい口入れ屋〔=職業紹介所〕があるかしら」
「新しい手伝いを雇うのかい?」
 敦盛が目を糸のようにして笑った。
「あいかわらず世話好きだな」








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