表紙

 お志津 68 緊急事態か



 志津は一瞬ためらい、長い睫毛の下から敦盛の精悍な顔を見上げた。 彼は縁のすり切れた学帽を無造作に頭に載せ、ラシャ地らしいごわついたマントを風になびかせている。 相変わらず気さくで話しやすく、ほほえみたくなるほど身近だった。
「ありがたいけれど、他に用事があるんじゃない?」
「そんなもの、ありませんよ」
 敦盛ではなく、横にいた馬渕が力を入れて断言した。
「仲間とこいこいして、合間に腹ごしらえしに来ただけだから」
 こいこい? 志津にはよくわからなかったが、たぶん何かの遊びだろうと見当はついた。
「それじゃ、探し人が見つかったら市電の駅まで送ってもらえますか?」
「喜んで」
 敦盛はそう言うと、大柄な体の割には驚くほど優雅に一礼した。
 すると馬渕がにやにや笑って冷やかした。
「店に来る異人から教わったのか?」
「見よう見まねでね」
 敦盛は平然と答え、志津をうながして狭い道に入った。


 雁家〔かりや〕家は、すぐ見つかった。 わりと大きな平屋建てで、木の門もなかなか立派だ。 地方の旧家という趣きだった。
 志津が門を叩くと、数秒後に玄関が明るくなり、がらがらと引き戸が開いた。 中から出てきたのは、嬉しいことに宇乃本人だった。 木綿の普段着にたすきをかけて、頭には手ぬぐいで姉さんかぶりをし、前掛けで濡れた手をぬぐっていた。
 疲れた険しい表情が、志津を目にしたとたん泣き顔に変わって、言葉をかける間もなく飛びついてきた。
「先生!」
 そのまま小柄な宇乃が泣きじゃくるのを、すらりとした志津が両腕で抱きかかえた。
 おいおい泣きながら、宇乃は言葉を搾り出した。
「お父さん、三日も放っとかれたんです。 お義母さんったら、お父さんと喧嘩して実家に帰ってしまって……!」
 志津の顔が、とたんに引き締まった。
「お手伝いするわ。 何でも言って」
「いえ」
 宇乃はあわてて手で涙を拭いてから、ぎこちない笑顔を見せた。
「もう済ませました。 部屋を片付けて、おぶう(=白湯)を飲ませて、いまお医者様に診てもらっているところです」
「ひとりで全部? 立派だわ」
「隣の小母さんが昨日おかゆを作ってくれたそうです。 ありがたいことですが、小母さんにも仕事があるし、お父さん一人ではうまく食べられなくて。 でもその小母さんが、小父さんに頼んで寮へ知らせてくれたんです」
 そのときようやく、宇乃は志津のすぐ後ろに立つ若者たちに気がついた。 とたんに赤くなって、急いで頭の手ぬぐいを取って頭をぺこんと下げたのが初々しかった。
「すみません気がつかなくて。 先生のお連れですか?」
 志津も二人を忘れかけていたため、急いで振り向いた。
「昔の知り合いで、あそこの食べ物屋さんの前でばったり逢ったの。 お宅への道を教えてもらいました」
「そうですか。 ちらかっていますが、皆さんどうか上がってください」
 これはすぐに学校へ戻ってこられる状況じゃない。 志津はそう直感して、ともかく話を聞かなくてはと思った。
「じゃ少しだけお邪魔します」
 背後の男子は顔を見合わせたものの、どちらも帰るとは言わず、大きな体を丸めるようにして、遠慮がちに玄関に入った。








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