表紙

 お志津 66 めぐり逢い



 寮生の山田りくが、他の教師ではなく志津のところへ駆けつけたのは、彼女を信頼しているからこそだった。
 無断外出は厳しくとがめられる。 まして外泊などすれば、下手をすると退学になってしまうかもしれない。 そうなる前に雁家宇乃〔かりや うの〕を連れ戻したいが、探しに行く自由があり、しかも生徒の味方になってくれそうなのは、教師のはしくれである志津しかいなかった。


 志津はその期待に応えた。 雁家の実家がどこにあるか、正確に山田から聞いて、すぐ出かける準備を始めた。 そして、忘れずに教頭の小杉先生に夜間外出の許可をもらいに行った。
「友人を訪ねる? もう暗くなってきましたよ」
 小杉は窓から外を透かし見て、感心しない表情になった。
「急に来て、今日しかこちらにいられないそうなんです。 久しぶりなので顔だけでも見たくて。 どうかお願いします」
 嘘を言うのは気がとがめたが、志津は必死だった。 雁家の父は裕福ではなく、ただ娘かわいさで収入をやりくりして、私立の女学校に通わせているのだ。 そのことも、後添えの夫人の不満の種だった。 そんな状況なのに、宇乃に危ない橋を渡らせるわけにはいかない。
「まあ、めったにないことですからね。 できるだけ早く帰ってきてください」
「はい、ありがとうございます!」
 声を弾ませて、志津はあたふたと学校を後にした。


 この頃は、ずいぶん交通の便がよくなっていて、少し前から町には出来たてピカピカの路面電車が行き交っていた。 だから志津は目的の牛込区〔うしごめく〕に半時間ちょっとで到着することができた。
 牛込の町は今の新宿だが、当時は宿場町の面影を残していて、都心のにぎやかさには遠かった。 街道沿いに立つ店も、辺りが暗くなると表戸を閉じ、明かりが洩れているのは飲み屋か旅館、それにところどころに挟まった民家ぐらいのものだった。
 家番号の標識も、まだない。 ガス灯は点々と立っているものの、道は舗装が十分でなく、脇道から土埃が舞い上がっていた。
 そんな中、志津は山田から聞いた酒屋の看板を探して、上ばかり見て歩いていた。 紀州屋という屋号で、大きな升〔ます〕の絵が目印だという。 その右横の小路を入って二軒目と聞いていたので、酒屋を見つければ雁家家は見つかったも同然だった。
 それにしても風が強まり、一段と気温が下がってきた。 首巻きを持ってくればよかったかな、と思いながら、志津が道中着の襟元をかき合わせたとき、行く手にある店の戸が突然開いて、男が二人出てきた。
 同時に揚げ物のほかほかした匂いが周囲に広がった。 その店は飯屋らしい。 夕食を取らずに急いで出てきた志津は、不意に空腹を感じて、通りすがりにちらっと店内を覗いた。
 中では五・六人の客が賑やかに食べていた。 いいなあ、帰りに寄っていきたいけれど、一分でも早く雁家さんを連れ戻さなきゃならないし、と、志津が足を緩めて考えていると、遠ざかりかけていた二人の男のうち、一人が不意に足を止め、それから凄い勢いで戻ってきた。
 あやうくぶつかりそうになって、志津はたじろいだ。
 反射神経でサッとよけようとした瞬間、男のよく響く声が耳を打った。
「お志津ちゃん?」








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