表紙

 お志津 62 羽ばたく時



「え?」
 志津はごく小声で言ったのだが、母の鋭い耳には届いたらしい。 咲は目を大きくして振り返り、厳しく言った。
「何を言い出すかと思えば。 いいこと? 良家の子女は、働いたりしないものですよ」
 志津は、むっとなった。 確かにそういう風潮があるのは知っている。 だが、働いて報酬を貰うのが下品なことなら、世の男性はどういう立場になるのか。
「良家の奥方なら、家を守るというお仕事があるけれど、私は独り身だし、寛太郎ちゃんとのご縁が切れたから急いで次を、と焦る年でもないし、今は兵隊さんになる若い男の人が多いから、人手が必要なんですって」
 日清戦争は早くも一昔前になりかけていて、日本は南下をもくろむ露西亜〔ロシア〕と一触即発の危機にあり、新たな徴兵が国中を騒がせていた。
 すると母は、耳をふさいだ。 本当に両手を挙げて、頭の両側にあてがった。
「やめて。 そんな話は聞きたくないわ。 あなたは学校に行って耳年増になってしまったようね」
 呼び方まで、おまえを止めて他人行儀なあなたに代わっている。 志津は困った。
「怒らないでください、お母様。 私は山猿といわれるぐらい落ち着きがないので、おとなしく花嫁修業なんかできないんです。 何かしていないと、ポンと爆発しそうで」
 そこでひらめいた。 働いても白い目で見られない仕事を、ひとつ知っている。 たちまち志津の目が輝いた。
「お母様!」
 不意に袂〔たもと〕を引っ張られて、咲はたじたじとなった。
「なに。 どうしたの」
 そして娘が満面の笑顔を浮かべているのを見て、不吉な予感に背筋が寒くなった。
「あのね、志津。 私は絶対に……」
「お母様、私思い出しました。 清徳女学館で、臨時教員を募集してます!」


 結局、咲は一人娘には甘い。 押し切られた形で、ともかく相談だけはしてみましょうということになり、母はしぶしぶ夕食前になって、父の耳に志津の願いを伝えた。
「確かに教師というお仕事は、人にバカにされることはないでしょうけど、あんな落ち着きのない子にできるとは思えません。 いくら皆勤で優等だったとはいえ」
 そう言って、乗り気でないところをわかってもらおうとした。 しかし心もとなかった。 父の義春、筆名『佐竹一義』が進歩的思想の持ち主で、世間の評価などあまり気にしていないのを、よく知っていたからだ。
 果たして、義春は娘の勇気をくじくより、むしろ頼もしがった。
「がんばろうとしているんだから、悪い話じゃないだろう?」
 とたんに妻がふくれたため、なだめるようにこう言い添えた。
「問い合わせるぐらい、いいんじゃないか? 第一、募集は半年も前のことだ。 もうとっくに決まっているかもしれないよ」
「そうですね」
 母は胸に手をやって、少し落ち着いた。








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