表紙

 お志津 61 新しい考え



 志津が家に戻ると、母がもう帰ってきていて、娘が一人で外出したのを怒っていた。
「勝手に出歩かないでと言ったはずよ。 それはおまえのためでもあるの。 昔ほどではないにせよ、峰山の名前と財産は、この辺りではよく知られています。 だから一人娘のおまえをさらって、無理やり婿になろうとする男がいるかもしれないでしょう?」
 うっ!
 嫌悪感で、志津の初々しい顔が歪んだ。
「そんな下劣な人、この村にはいません」
「ここにはいなくても、他所からいくらでも入り込めるわ」
 母も負けてはいなかった。
「縁談といえば、今日、郡〔こおり〕の甲斐介さんに道でひょっこり逢って、正式に破談にしてもらいました。 改めてうちへ挨拶に来ると言われたけれど、そんな他人行儀なことはいいとお断りしたの。 あの人は変わったわねえ。 なんだか目つきが悪くなって」
 志津は寂しくなった。 投資詐欺に引っかかる前の甲斐介は太っ腹で、顔が合うといつも笑顔で、お志津坊、今日も元気だね、と、よく呼びかけてくれたものだ。 それが最近では人目を避けるようになり、肩をすぼめて早足で行き過ぎると言われていた。
「騙した人は、まだ捕まらないのかな」
「新聞には出ていないわね」
 母は溜息をついた。
「恩人をだますような悪人だから、捕まえてもお金は戻ってこないでしょうね。 悪銭身につかずと言うでしょう?」
 それでも、何千円という大金を、あっという間に使い果たせるものだろうか。 志津はまだ僅かに望みを持っていた。
「早く捕まれば、それだけ使い残したお金も多いと思うけれど」
 母は答えなかった。 答えるだけ虚しいと思っているようだった。
 そこで志津は、筧山であったことを話すことにした。
「お母様、さっき山で、寛太郎ちゃんに出会ったんです」
 とたんに母は、くるりと振り返った。
「まあ! あんなところで?」
 志津はうなずいた。
「私に会いたくて、道で見つけて追ってきたんですって」
 母はみるみる、顔に血を上らせた。
「仲直りしようと思っても無駄なのに! もう縁は切れたんだから」
「そうじゃなくて、謝ってくれました。 寛太郎ちゃんは、うちに迷惑かけたくなかったの。 お父さんの投資には初めから反対だったし。 家を出てから、がんばって働いているみたいでしたよ」
 母はその言葉で気持ちを静め、やがて独り言のように言った。
「そうだったの。 あの人も気の毒に」


 母と話しているうちに、志津の心に新しい考えが忍び込んできた。 世間の風を浴びて、たくましくなって帰ってきた寛太郎に、影響されたのかもしれない。
 鉄道の線路を敷かれるように、一年後には結婚するという道が決まっていた。 だが、その道は不意に途切れた。 せっかく自由になったのに、焦って他の男を見つける必要が、どこにある。
「私も仕事を見つけたい」
 自然に言葉が、口からこぼれ出た。








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