表紙

 お志津 57 本心が出た



 寛太郎はいわば出稼ぎに行っただけだ、と聞かされても、咲の表情はなごまなかった。
「それだけですか? だったら何で、家出までする必要があるんです?」
 とたんに父の視線が泳いだのを、志津は確かに見て取った。 そして悟った。 本当のところ、寛太郎は親と喧嘩別れになり、顔見知りの水商売の女を頼って行ったのだと。
 母の咲も、明らかにそう思っていた。 いつもは穏やかな眦〔まなじり〕を吊り上げ、言葉を継いだ。
「真面目で頼りになる子だと思ったからこそ、志津の婿に選んだのでしょう? でもこうなっては、とても信用できません」
「まあ、そう早手回しに結論を出すな」
 父は困ったように言い、顎を撫でた。
「当事者の寛太郎くんの言い分も聞いてみなければ。 それに、緊急の要件もある。 甲斐介をむざむざ破産させるわけにはいかない。 代々伝わった郡の土地を、人手に渡すわけには」
「そのお気持ちはよくわかります」
 咲は膝に手を置いて、冷静になろうと努めた。
「でも今年はお天気が悪くて作物が傷み、みんな収入が減って暮らしを切り詰めています。 親戚で力を合わせても、二千円なんていう大金を作るのは、無理な話でしょう」
 着物の袖口に手を突っ込んで腕を組み、父の義春は無念な表情になった。
「確かにそのとおりだ。 だまされたとはいえ、甲斐介にも非があるしな。 せめて屋敷と周りの畑だけでも救えないか、作治(←村長)と話し合ってみる」



 あまりに衝撃的な知らせに、義春と咲は上の空になって、当事者の志津がどう感じたかまで気が回らなかった。 二人が心配している間、志津が珍しくも、そこにいないかのように静かにしていたせいもある。
 志津だって、もちろん驚いていた。 しかし、寛太郎が他の女の元に行ってしまったというのに、悔しさは不思議なほどなく、かすみの中から外の出来事を見ているようで、妙に冷静なままだった。
 父親が、すぐ着替えて慌しく外出した後、母はまだ茶の間に座って庭に目をやっていた娘に寄り添い、慰めようとした。
「大変なことになったわね。 こんな辛い思いをさせるなんて」
 志津は母に向き直ると、淡い微笑みを浮かべた。
「辛いかどうかは、まだよくわかりません。 明日の朝起きて、今度カンタローに逢ったら引っぱたいてやる!、と思うかもしれないけれど」
 娘の手を握った母の指に、力が篭もった。
「私が薙刀〔なぎなた〕で成敗してやりたいわ。 これで来年の婚礼はなくなった。 宙ぶらりんになった志津の立場はどうなるの」


 そうだ、結婚しなくていいんだ。
 そのとき志津は、いきなり胸の中に躍り出てきたその言葉に、ぎょっとなった。
 しなくていい…… 今、私、そう思った?
 急いで打ち消そうとしても、遅かった。 抑えようもなく開放感が広がってきて、志津は認めないわけにいかなくなった。
 なんと私は、結婚を望んでいなかったんだ!








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