表紙

 お志津 56 噂と現実は



 甲斐介が家にも上がらず、恐縮しきって事情を説明してから、肩を落として帰っていった後、父は志津に寛太郎の家出を正直に打ち明けた。
「寛太郎くんは昨夜のうちに去ったらしい。 朝になって置手紙が見つかって、郡家は大騒ぎになった」
 志津はもうとっくに目覚めて、家族と八時までに朝食を食べ終わっていたため、茶の間にきちんと座って、母と共に父の話を聞いていた。
 父は、日よけに垂らした簾〔すだれ〕を睨むようにして、言葉を続けた。
「狭い村だ。 これからいろいろ騒がしいだろう。 だが身内として言っておきたいのは、寛太郎くんがいいかげんな気持ちで決行したのではないということだ」
 そこで、父の顔がわずかに歪〔ゆが〕んだ。
「彼はずっと悩んでいて、とうとう心を決めた。 他に取るべき道が見つからなかったんだろう」
「そのお相手がそれほど好きだったということですか?」
 母が訊き返した。 口調に苦い皮肉が感じ取れた。
 しかし、父は強く頭を振り、意外にも否定した。
「違うんだ。 いいか、驚かずに聞いてくれ。 郡の家は今、破産しかけているそうだ」


 直後に小さな音がした。 母がよろけて、畳に手をついて体を支えた音だった。
 驚くなと言われても、聞いていた二人には寝耳に水だ。 志津も、そんな事態は想像さえしていなかった。
「でも……甲斐介さんの田畑はうちより広いし、珠江さんはいい奥さんでぜいたくなんかしないし」
「だまされたんだよ」
 その一言で、部屋の空気が凍りついた。
「昔の仕事仲間が、東京から訪ねてきたそうだ。 昔は働き者の律儀な男だったんで、歓迎して話を聞いているうちに、いつの間にか千葉の干拓事業に投資させられていた。 よほど口のうまい奴だったんだろう」
 新しく出来た土地には、すでに缶詰工場を誘致する予定になっている、と、男は甲斐介にもちかけた。 平らな干拓地は、広い土地を必要とする工場には理想的だし、すぐ近くに港もある。 作った製品を国内だけでなく海外にも簡単に送り出せる。 そう男は目を輝かせて語ったという。
「甲斐介ほど真面目な人間でも、魔がさすことがあるんだな。 出資金に応じて干拓地を自分のものにできるというのが、殺し文句だった。 工場の支払う地代でもっと土地を増やして、大地主になれると夢見たんだ。
 最初は手元にある金を使っただけだった。 だが、相手はいろんな手段で出資金を吊り上げ、終いには、もう二千ないと計画がつぶれて、これまでの投資がすべて無駄になると言った」
 二千…… と呟いて、咲が額を押さえた。 三百円で立派な家が建つのだから、二千円は大変な大金だった。
「土地や屋敷を抵当に入れて、金を工面した。 その金を渡すと、男は煙のように消え、連絡がとだえた。 あわてた甲斐介が千葉に飛んでいったところ、確かに干拓事業はしていたが、男のことなど誰も知らなかった」
「なんとひどい」
 咲の顔は、いまや真っ青になっていた。 話を続ける義春の表情も苦しげだった。
「寛太郎くんは春休みに初めて投資話を聞いて、反対したそうだ。 それを押し切って参加したため、途中で不安になっても相談できなかった。 父親として、意地になってしまったんだ。
 甲斐介は、もう息子の学資も出せないほど追い詰められている。 だが、知ってのとおり、上級学校へ何年通っても、卒業しなければ意味がない。 学歴として認めてもらえないから、給料のいい仕事にはつけないんだ。
 それで寛太郎くんは決断した。 飲食店に住み込んで夜働き、昼間は通学する。 残り後一年の辛抱だ」








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