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お志津
55 消えた相手
そこで不覚にも、志津は一瞬迷った。
自分でも、しまったと思った。 だからまた失敗した。 妙に早口になったのだ。
「もちろんです」
あやうく口がもつれそうになったのは、何とか止めた。
父の振り向く気配がした。
志津はおそるおそる顔を上げた。 すると意外にも、父は微笑していた。
「そうか、それはよかった」
「はい」
拍子抜けして、志津はますますあやふやな口調になった。
夕食の席は、何となくぎこちなかった。 母は珍しく、機嫌の悪さを引きずっていたし、父は普段になく無口だった。 間に挟まれた志津は、両親の仏頂面を気にしないようにして、いつものように元気に食べながら、必要なことだけを淡々と話すようにした。
「さっきお若ちゃんが、前掛けにかぎ裂きを作ってしまったので、代わりの布をあげました」
お若〔わか〕とは、春にやってきた新入りの女中見習だった。
額に皺を作っていた母は、目覚めたように顔を上げて、いつもの微笑みを浮かべた。
「そう、それはよいことをしたわね。 あの子は元気があって明るいけれど、ちょっと粗忽〔そこつ〕なところが玉に瑕〔きず〕ね」
「私に似てます」
そう志津が言うと、父まで笑顔になった。
「お若はおまえより一回り大きいから、その分被害も大きくなるな」
食事の給仕をしていたお蓉が、苦笑しながら小声で言った。
「力が強くて、役に立ちます」
志津はすぐお蓉にうなずき返した。 峰山家は雇い主と使用人にあまり分け隔てがなく、よく話を交わすのだった。
お若の話題のおかげで、いつもの空気が戻ってきた。 翌日もみんな明るかったため、もうわだかまりはないなと志津が安心しかけた三日後、予想もしなかった形で、事件が起こった。
朝の八時半という早い時刻に、郡甲斐介、つまり寛太郎の父親が、帽子も被らずに峰山家に駆けつけてきた。
そして、玄関でいきなり深く頭を下げると、かすれた声で父の義春に告げた。
「申し訳の立たないことになった。 寛太郎が、家を出た」
郡の跡継ぎが出奔〔しゅっぽん〕した、という噂は、あっという間に村を駆け巡った。
甲斐介が詳しく説明したのは、義理のある峰山家にだけだったが、やがてどこからともなく情報が洩れ、尾ひれがついて、いっそう人々の好奇心をかきたてた。
真偽のほどは定かではないが、寛太郎は飲み屋の女と駆落ちしたというのだった。
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